12月5日 「良い質問」をする技術 その4

   12月5日  「良い質問」をする技術 その4

 

      <質問は内在化する>

   筆者はが特に重要と考える、一つの質問の性質として、「質問は、人の中に内在化する」と指摘

   しています。質問には、「人の心を強く捉え」「指示・命令よりも人の心にすっと入り」

   「ひらめきと自発的行動を促す」という性質があり、そのため質問は、他のどんな言葉よりも

   人の心に留まり易いとのことです。特にそれが「答えのない質問」である時は、内在化の力は

   とても大きなものになるとのこと。(他からの質問でなくても、何か興味を抱いて自ら疑問を

   抱いた時も同様のことが言えると思います。その1の自閉症スペクトラムの青年が描いてくれた

   花が全くないひまわり畑の描画がその例です。)

     筆者の中にも「エグゼクティブコ−チとは何か」すぐれたエグゼクティブコ−チとは

   どういう人間か?」といった質問が内在化しているとのこと。内在化した質問は、人間を

   一つの方向へ向かわせ続ける、強力なエンジンとなるとのことです。

   但し、通常のコ−チングと私のいう障害者のようなメンタルことは、次元が異なりますので

   同一視するとずれが生じることがありますが、この箇所の一つの方向に向かわせる強力な

   エンジンと述べていることは、私の例にも当てはまります。

    しかし、「内在化した質問」は、必ずしも「良い質問」」であると限らないとのこと。

   或は「良い質問」であり続けるとも限らないとのこと。その3で筆者が指摘したように、

   質問は、人の意識を固定化し、組織の文化を決める力があります。人間の日々の行動を

   決めるのも、その人の中の質問によるとのこと。もし、当人が手に入れたいものに

   結びつかない質問が内在化し続けたら欲しいものは、いつまでも入手できません

   筆者のようなエグゼクティブコ−チの仕事は、クライアントの中で内在化して質問と

   向き合い、それをクライアントにとってより価値の高いものにすること、とも言えるとの

   ことです。

   実際に筆者が何回ものコ−チング・セッションで行っているのは、

   ● クライアントに内在化した質問に気づいてもらい

   ● 内在化していない質問を投げかけ

   ● クライアントの中に、新たにより高い質問を内在化させる。

   これら3つの事項は、カウンセリングにも応用できる大切なご指摘と直感しました。

   またこのような内容の研修は、社内研修にとってとても役立つ学びになると痛感しました。

 

 

 11月21日 自閉症、二ホンザルにも−−−人間以外で初めての確認 (読売新聞 11/20)

 11月21日 自閉症、ニホンザルにも−−人間以外で初めての確認(読売新聞11/20)

 

   対人関係を築きにくいとされる「自閉症スペクトラム症」と同じ症状をもつニホンザルを

   確認したと自然科学研究機関機構生理学研究所(岡崎市)などのチ−ムが明らかにした。

   人以外の動物で遺伝子操作せずに自閉症スペクトラムが確認されたのは初めてという。

        他者の行動に反応する神経細胞は殆どなく、遺伝子の特徴も人と共通している。チ−ムは 

   「これまで謎であった自閉症スペクトラム症の仕組みの解明につながる」と期待している。 

   自閉症スペクトラム症は、自閉症などの発達障害の総称で、人間は、100人に一人程度いると

   される。チ−ムは、飼育中のサル1匹が人になつかず、自分の爪をかむ行動を繰り返すなど

   自閉症スペクトラム症に似た特徴をもつことに注目。遺伝子解析の結果、特定の遺伝子が変化

   した影響で、人と同じ症状が表れたと結論づけた。

   ◎ なお、イギリスマンチェスター大学のジョナサン・グリ−ン医師等が行った研究によると

   自閉症児に対して親が早い時期からコミュニケーションをとる介入をすると自閉症の重症度に

   改善が見られ、その効果は長期的に続くという。

   ◎ 「鉄は熱いうちに打て」のとおり、自閉症、アスベルガ−、ADHDなど発達障害児は

    早い時期に適切な、家庭、学校等での療育、教育訓練、専門機関の治療が必要なことは

    言うまでもありません。自閉症スペクトラムだって、対処の仕方次第では、就労することも

    できます。以前ブログで載せたこの障害の青年も就労の経験もありますし、ADHD

    ( 注意欠陥多動性障害)も早期に教育訓練して小学校に入学して一般の児童とうまく

    やっていける例を日進市内のNPO理事長から聞いています。

     さらに言うなら、本人を取り巻く環境が大きくものいうと思います。

    まずは、家庭内での家族との関係、ここで障害のあることで特別視され、冷遇されると、

    外部でどのような教育訓練や、治療を受けても効果中々上手くいかないことを

    NPOでそのようなハンディをもった青年と接してきて実感しました。

    しかし、家庭がそうであっても、

    外部の環境や尽力して治療に当たって下さる精神科医等の方々により、自己肯定感、

    さらに言えば「自分の存在価値」を自覚して、就労したり、仲間の障害者の支援活動に

    乗り出す人もいます。

    ですから、障害者の方々を固定的に決めつけるのではなく、たとえ、ある程度時間を要しよう

    と忍耐して待ち望む姿勢が不可欠と考えます。「冬来たりなば、春遠からじ」は障害者支援

    にも当てはまる言葉と信じます。

 

 

 10月24〜25日  抑うつ性パ−ソナリティを持った遷延うつ病者の事例

   10月24〜25日  抑うつ性パ−ソナリティを持った遷延うつ病者の事例

          平井孝夫先生執筆 「うつ病の治療ポイント」より

          認知行動療法を活かしたクライアントの強い自己否定感からの脱却

   * 遷延うつ病とは長引いて治療困難のことです。

     抑うつ性パ−ソナリティ障害の診断基準(DSM−4−TR アメリカ精神学会より)

   1 通常の気分は拒絶、憂鬱、活気の欠如、喜びの欠如、不幸感に支配されている。

   2 自己概念は不適切、無価値、低い自尊心などを中心に形成されている。

   3 批判的、被害的、自虐的である。

   4 思い悩み、心配性

   5 他対して否定的、批判的、断定的である。

   6 悲観的である。

   7 罪悪感や後悔の念を抱く傾向になる。

   今回の事例を取りあげましたのは、就労支援の鶴見隆彦先生の失敗から学ぶからの影響を

   自身の辛かった事例、また比較的よく自己開示して頂いたことなども想起しつつ、

        認知行動療法のこんな活かし方もある。でもクライアントとの対話の自然の流れに

        沿っての活用であって、こちらが意図的に使おうとするとその流れを壊してしまうことに

        留意しました。

      <事例N> 独身女性、28歳

   このNさんは、もともと控えめでもの静か、友達付き合いは苦手で静かに読書や音楽を

       楽しむというタイプですが、一寸したことで自信を失ったり、自分を責める傾向があり

       ました。しかし、成績は優秀だったので、よく学校の先生から「もう少し自信を持ったら」

       と言われていたとのことです。

  大学は、一流大学に進みましたが、相変わらずこの傾向は変わりません。普通の学生が

     遊んでいる時も専攻の英文学の勉強に取り組んでいるという有様でした。大学院に行きた

     かったのですが、親に早く働いて欲しいと言われ、就職試験を受けたところ一流の大企業

     に受かりました。

   ただ社会に出てやっていけるだろうかとひどく不安になっていたらしく、高校時代の

     恩師に相談に行きました。恩師は「心配し過ぎだ。君は自分に思っている以上に実力が

     あるのだから」と軽く受け流されただけで、彼女の本当の心配は受け止めてくれません

    でした。

      就職後は与えられた業務を一生懸命こなしたのと、良き上司(彼女の内向的な性格をよく

     見抜いて的確に使いこなした)に恵まれたお蔭もあって、二年間は何とか過ごせた

     ようでした。

  それでもたくさんの人のなかでで用件を伝えたり対人関係で苦労したりと本当に疲れる

     毎日だったのです。そんな中で、その敬愛した上司が転勤することになり、一挙に

     Nさんは落ち込みますが、つとめて落ち込む姿を見せないようにし、黙々と仕事を

     続けました。しかし、新たに後輩の指導を頼まれ自分ののことだけでも精一杯なのに、

     しかも最も苦手な指導ということでひどく悩みます。

  夜は眠れず、頭は朦朧として希死念慮が浮かびますが、家族に迷惑をかけていけないという

  ことで思いとどまります。やっとの思いで会社にいきますが、疲労感、絶望感は募る

     ばかりで悶々として眠れない夜を過ごしていたところ、気がついたら手首を傷つけて

     いたということがありました。 これを発見した母親はびっくりして、嫌がる本人を

     説得して、急いで精神科医のもとへつれていきました。 本人はあまりしゃべらないため

     母親が代わって゜会社のことを「多分悩んでいたと思うし、眠れない日が増えていたようだ」

     と説明した。そこで一カ月の休養が言い渡され、抗うつ薬や睡眠導眠剤が出されましたが

      本人は余り飲まなかったようとのこと。また、休養しても、状態は余り改善させず、

     今回の挫折をかなり苦にしているようでした。結局、会社は4カ月休んだ後

  辞めることになってしまいました。しばらく家にいたNさん、母親から

    「これからどうする」と言われるし自分でもなんとかせねばと思っていたので、仕事を

     探しました。幸い英語ができるということで某商事会社に勤めることになりました

  ここでも1年ぐらいは何とかよかったのですが、やはり対人関係のしんどさがつのって

  きて、再び不眠、憂うつ感、絶望感、集中力低下がひどくなり、それを見た

  母親が別の精神科医のもとに連れて行きました。その時も同じように、薬と休養を命じられ

  従ったのですが、状態は改善せず、その会社も辞めることになったのです。

       再び引きこもることになったNさん、やはり家にいることに罪悪感を感じ、

  社会訓練としてある塾の事務員として勤め出し、そのうちに英語ができることから、

  「英語を教える」ことを上司から話があり本人は断りたかったのに、その意思を出せず

  引き受けた結果苦痛がましたとのこと。

  今回も人間関係のしんどさが加わって再びうつ状態になり、また休むことになりました。

  精神科医のところへいっても、抗うつ薬を飲んでも全く効果なし。益々絶望して家に

  引きこもる日々。

  死ぬ以外道なしと考えるのですが、自殺は家族に迷惑がかかるので実行せず。−−

  母親は知り合いから平井先生のことを聞き嫌がる本人を連れていきました。 

  

  <先生の解説1>Nさんの場合、抑うつ性パ−ソナリティの傾向が強く出ていると思います。

   こういう人は、状況に圧倒されやすいだけでなく、意思表示をしないため負担を

   引き受けてしまうなど(仕事の負担を断りたいのに)状況をそのものを悪化させ

   やすいのです。

   しかし、Nさんは、三度挫折に負けず挑戦しているところは立派ですが、治療をいつも

   中断しているところが問題です。これは、その時々の精神科医や家族の対応にも

   問題があり、彼女の性格だけの問題として片づけられません。

   治療に関わる大事なポイントを実に的確に把握してみえます。

   治療の見立てとしてよく洞察されてみえます。

   (まさに本人にとって窮地に一生を得た先生との出会いです。)

        平井先生は本人 と会いましたが、黙して語らずで「いやいや連れて来られたら

   そんな気になりますよね。

   無理に口を開かなくてもいいですよ」と言った後、本人の形式的許可を得て

   母親から事情を聞くことにしたとのこと。と言っても、母親は表面的なことしか

   言いません。つまり3回仕事に就いたが、いつも1〜2年でやめてしまうこと、

   三回精神科医に通ったか゛、続かないこと、今は自室にこもってやせ細って

   いくことなど。本人の内面を聞くと、よくわからないとのこと。そこで先生は「推測で

   間違ったら申し訳ありませんが、あなたは相当絶望されて一切の希望はないと考えて

   おられるようです。今まで3度も挑戦して挫折したらそんな気になるでしょうし、

   また病院にかかってもちっともよくなっていない。それにあなたの苦しい思いを誰も

   分かってもらえないのもさらに苦しい、といった連想がわきましたがどうですか」

   と聞くと、力なく小さい声で「ええ」と答えました。しかし、それについて聞こうと

   思うとやはり沈黙して語らずです。そこで治療者は「とにかくまだ十分全貌が分かった

   わけでない。しかしこのまま放っておくわけにもいかない。だからもう一度来て

   くれませんか」と聞くと、本人はかすかにうなずきました。

        母親は「薬は出ないですか」と聞いてきたので「本人から十分話も聞けないし、

   問題点の本質もわかっていないので、出していいかどうかわかりません」と答え

   られたのこと。

   二度目の外来は余り拒否的ではありませんし、母親も今日は嫌がらなかった」といいます。

   それで、先生は、「一人の方がいいですか。お母さんがいる方がいいですか」と

   聞きましたが答えられません。先生は直感で拒否ないと感じたので、二人だけで

   話し合うことを提案すると彼女は応じました。 

   ◎ この後のことは続編で述べます。

 

 

 10月26〜28日 二回目の診察以後

  10月26〜28日 二回目の診察以後

       平井先生がCBTを活かして抑うつ性パ−ソナリティを持ったうつ病患者の

       強い自己否定からの脱却へ進む箇所が中心になります。

     ▲  二回目の診察  

   先生  前回 絶望感をわかってもらえない苦しさということを言いましたが、あれは

       どうだったんですか。

   N   確かにその通りだったのです。でも、それを認めるのは辛いし、苦しいし、

       それで黙っていました。

   先生  それで、今でも治らないと絶望されているのですか。

   N   というより、私、病気ではないんです。私のは性格から来ているから

       どうしようもないんです。 病気なら治せるんでしょうけど。

   先生  病気か性格なのかの議論をするつもりはありません。だいたい、そんな区別は

       厳密にはできないと思っています。精神科のクリニックは病気かそうでないか

       にかかわらず、困っている人のための「よろず相談所」と思っていますから、

       いくらかでも助けになればと思っています。 あなたもすこしでも苦しい中に

       いることは事実でしょうから、それを少しでも楽にできたらと思って

       いますが、おせっかい過ぎますか。

    N   先生の御好意はありがたいですが、私のこの性格は治しようがありません。

        もっと他のお困りの方を治してあげて下さい。(開き直りともとれる頑迷さ

        認知の偏りがよく出ています)

    先生  あなたはいつごろから、この性格は治らないとと考えるようになった

        のですか。 

     N  小学校ぐらいからです。友達もできないし、たぶん社会の中ではやって

        いけないだろうと思っていたとおりになりましたから(先生の言葉 実際は

        いつかわからないが、こういう状態の人は遠い昔のことを言う人が多い)

     先生  そんな昔からそう思われているいるのなら、よっぽど深い根拠がおあり

         のようですが、それをもう少しお聞かせいただいていいですか。

      N  先生がそこまでおっしゃるなら。でも、どうにもならないと思いますが。

       ▲ 先生の解説2

     絶望的で、拒否的な中、先生との話し合いの中、先生との話し合いは2回でき、

     表面的には消極的でも、本人から通うという約束までとりつけることができました。

     本人から性格の内容や治らないと思える根拠を聞くと、次第に次のことが明らか

     になってきました。「私は対人的に無能で魅力がなく、どう話していいのか

     わからず、人の話もきけず交わることもできない。本で得た知識も対人関係や

     社会人としての活動ができないと、どうしようもない。私は全く生きていても

     仕方がない人間だ」という自己否定感、「私には何の楽しみもない。

     本を読んでも字面を追っているだけ。たまに感動しても自分の今の生活を考えたら、

     すぐにその感動をかき消されてしまう。」という生きる喜びの無さ、

     「人との関係が全くできないし苦痛。私は人と親しくなりかけると、その人が

     どんどん侵入してくるように思えて怖い。それに親しくなると、いつか裏切られる

     のではないかという疑惑が生ずる。事実、今までしょっちゅう裏切られていて

     人間に対する不信感が強い。また、いつか相手に嫌がれ、相手に迷惑をかけしまう

     のも辛い。」「それで一人でいようとすると、”いつも一人だね”と嫌味を言われ、

     孤独でいることもできない。会社を辞めたのもこのことが大きい」という対人

     関係の悩み、「もう何も期待していないし将来に何の希望もない。だから

     自然に死ねたら、こんなにいいことはないのに」とという未来への絶望感

     ということでした。(ここの本人の対人関係の強い不信感の言葉から

     すでにブログで述べました、私の授業で教えた高2の女子生徒のことが

     フラッシュバックしてくる感じがして痛々しいです。青年期のこと、思想、

     など教えた後宿題として感想文を書かせ、その中の今も鮮明に覚えているのが

     その生徒の丁寧な字で書かれた作文。

     ”人は優しそうな顔をして、いざというとき、裏切る。人を信じてはいけない。

     信じるとかえって悲しい思いをする。”それを読んだ後その生徒に私から少し話したい

     と声をかけましたが断られ、その3日後位して自殺の悲報を知り、悲しくも、

     とても悔しい思いがしました。

     あのころ、その生徒は休みがちで、久しぶりに会って、「元気そうね」と

     言ったのが、まず失敗でした。「宿題の作文、とても丁寧に書いてくれて

     ありがとう」こんな言葉からはじめて、わたしでよかったら少し話ししましょう」

     こんな切り出しでもすれば、状況が変わっていたかも知れません。

     へぼな青二才教師の失策でした。

     平井先生は、本人の告白を聞かされ気が重くなったとのことでしたが、態勢を立て

     直して次のような対話をされたそうです。

            先生   確かに、これだけ辛い気持ちでいたら何の希望も持てませんよね。

    N   ええ、そうでしょう。だから、もう私のことなんか関わっても

        しょうがないんです。

    先生   ただ、話を伺っている間にこんな連想もわいてきました。しかし、とても

         あなたを傷つけてしまうかも知れないないのですが、伝えてよろしいですか。

    N    ええ、どうぞ。私はもう傷ついていますから。

    先生   つまりね、あなたの考えにはいい点もあるような気がしたんです。

         というのは、「将来に期待しない」ということは、、変な欲望を持た

         なくてもいいし、それだけ不安も煩悩もない。

         それに期待しておかなければ将来うまくいかなくてもそんなにがくっと

         くることもない。

         「また、人との交際をさける」というのは、煩わしさから逃れて一人で

         いることの気楽さを得ることになる。

         何よりも自己否定が強いというのは、自分をより深く見つめることが

         できる能力の一つであるし、他者への不信感は他者からの不用意な侵入を

         防ぐ意味では大変有効だと思う。あなたはこういう点で自分を守っていた

         のではないですか。

         (この太字の箇所では、CBTで用いる視点、観点を変えることで

         自分の偏った視野を広げるような手法を活かしている感じがします)                                 

    N  ( びっくりした顔をして、しばらく考えながら)−−−先生。どうして、

                         そんなことわかるんですか。

       実は、そんなことが頭をかすめることがあったんですけれど、今、先生に

                   はっきり言われて、そんな気持ちを自分が持っていることがよくわかりました。

             (高度な先生の要約して返すactive listeningの効果を感じます)

       先生  それと「こんな辛い気持ちで生きているだけでも奇跡」そして「こんな奇跡を

              行えているのは自分ぐらいだ」という思いも、あなたの中にあるんじゃないんですか。 

    N   (興奮して) 本当にそのとおりです。それもあります。でもそんなことって、

                       とても悪い考えでしょ。

        (ここにも本人の自己を責める罪責感が出ています)

   先生  常識的な人ならそう思うかもしれませんが、私はそうは思いませんね。

                  「自己肯定、対人関係尊重、信頼感、希望」といった肯定的思考はプラスの方が

                  一見多いように見えますがマイナスもあります。一方で【自己否定、孤独、

       不信感、絶望 」という否定的思考は、マイナスの方が多いようにみえますが、

       プラスの点も結構あります。要は、この両方の思考をうまく使い分けて

        いけばいいのですよ。この考え、どう思いますか。

       ◎ とかくCBTがよく使いこなされていないと、カウンセラ−が

       白、黒の二者択一の教示をしたくなりますが、この対話の流れをみると

       まず本人が自己否定の開示し、それの要所を先生が要約してタイミングよく

       本人に気づきを促していくところは、絶妙と感心しました。

       それと黒か白かでなく、灰色の選択だってあることがわかると、

       張りつめていた緊張がほぐれてきます。

             N   先生のおっしゃるとおりだと思うんですが、私は否定的  思考が強すぎます

        それに両方を使い分けるなんて、まだまだです。

    先生  もちろん、そんなことすぐには無理です。でも、まず否定的思考のプラスの

        意味を感じておられることが出発点です。

    N   わかりました。それにしても、この歳になってこんな話を聞くとは思いません

        でした。

      ▲ 先生の解説3

     ここでは、否定的思考の内容を詳しく聞いています。本人は、最初の否定や

     ふてくされが和らいで、 だいぶ話せるようになってきています。ここで

     否定的思考のプラスの意味を取り上げたのは、本人を元気づけるために意図的に

     したのではありません。話を聞いていて自然にこれを伝えたくなったのです。

     いずれにせよ、わずかであっても、これまでずっととっいた否定的思考のパタ−ン

     の良い点が感じられたのは前進でした。

     この話の後、少し元気を回復した本人ですが、すぐさま抑うつ的になりました。

     それは「ここまで話込んだのは先生しかいない。その先生が私に興味や関心がなく

     なったり、私に嫌気がさしたらどうしよう」という不安だったので、

    「それは信頼感が深まった証拠である」と答えておきました。

     話の焦点は否定的思考、それも特に対人関係の否定的思考に移りました。

     N  人といるとどうしても、その人に嫌がられるのではとか、その人に

        迷惑がられているのではないかという考えが沸いてきて、引き込んでしまう。

    先生  それは川の激流のようで、その考えが浮かんでくることは止められませんね。

        問題はその後です。もし、それらを肯定的に考えたらどうなるでしょう。

     N  その場を立ち去っていくわけでもないし、色々話しかけてくるので

        嫌がられているのか、どうかは、はっきりしません。

    先生  そうすると、あなたの適切な態度は。

     N  そんなに嫌いでなかったら、そこにいておしゃべりに加わる方がいいように

        思いますね。でも、私話下手です。

    先生  自分だけべらべらしゃべるのと、人の話を聞いてあげるのとどちらが

        好感を持たれると思いますか。

    N   あとの方ですね。

   先生   そうなさるつもりはありますか。

    N   少し頑張ってみます。

    この箇所の対話ではコ−チングの感じがします。マイナス思考の本人に対して、

    その偏りをほぐす質問がよく機能して効果的です。CBTでも、コ−チングでも使う

    選択的適用もプラス思考へ導くのに効果が発揮されています。 

    次のアサ−ションの心理教育(自分の気持ちも大切にするけれど、相手の気持ちも

    思いやって大切にする)これも本人の心に心にヒットします。

    それ以後は、いろんな場面での話し合いと適切な対応をめぐっての話し合いが

    中心になりました。

    たとえば① 人にものを頼まれたとき、考える暇もなく引き受けてしまう→できる

    ものかどうか考え、できそうにない場合は申し訳なさそうにやんわり断る。

    ② 人に誘われていきたくないときでも「断ったら嫌われる」という考えが自動的

      に生じて応じてしまう。→一歩立ち止まって考えて行きたくない方が強ければ

     「少し考えさせてください」とか、「予定が入っているので」と言う

     (一人で休養するのも予定である。)

    ③ 逆に友達と話たいとき(彼女は最初はいるとは言っていなかったが、実際は

      二三人いた)

     断れる気がして電話をかけられない→電話をかけたとき、時間があるかどうか聞いて、

     時間がありそうなら話し、相手が話をながく続けたがっていそうなら会う約束を

     提案してみる、などでした。 このような一つ一つの成功例が自己否定感の改善に

     つながります。 

     このような先生のご指導に応えて彼女も努力した結果職場の対人関係は好転して

     いきましたし

     母との関係も、母が自分が仕事にばかり夢中になっていて、本人のことを

     なおざりにしたことをわびたとのこと。

     とは言え、先生の言葉によると、控えめで受け身的で内向的で自信のなさは

     それ程改善しなかったとのこと。しかし、自分はこういう性格でいく」と

     開き直ったのか、何とか仕事は続けることができ、ある男性から交際を申し

     込まれてつきあっているとのこと。

     そして今は、自分の性格については、全面的に肯定も否定もせず、「よい点と

     悪い点が入り混じっているのだなあ、余り好きになれないけれど、この性格で

     頑張ってみよう」ということになったのですと先生のコメント。

     ここに健常性復帰の自己肯定感が見られます。

 

 

 9月8〜10日   気持ちが言葉になるプロセス その1  創価大教授 園田雅代先生執筆

  9月8〜10日   気持ちが言葉になるプロセス その1 創価大教授 園田雅代先生 執筆

                児童心理 8月号より

    筆者は子供たちにとって、気持ちが言葉になるプロセスについて次の3つの大切な面を

    指摘しています。

    (1)子供が、自分には気持ちがあるとわかってていること

    (2)子供が、自分の色々な気持ちを大切にしてよいとわかっていること 

    (3)子供が、自分の気持ちにふさわしい言葉を使えるようサポ−トされること

    上記の特に(2)と(3)は、成長過程の中でアサ−ションにおいてまず自分の

    気持ちにきちんと向かい合えることが、他人の気持ちも大切にする基礎として

    大事な発達課題と感じました。

    (1) 子供が、自分には気持ちがあるとわかっていること

   筆者は「自分には、気持ちがあることをわかっていないことなど、果たしてあるの

   だろうか」と

   思うかもしれないが、小中学校の教師と子供とのコミュニケーションについて

   話し合うなかで、そういった危機感に近いような意見を聞くことがあるとのことです。

   例えば、はたで見ていて、その子供が明らかに嫌な気持ちをしていのんじゃないの?

   嫌いなら、ちゃんと嫌いだということを相手に言葉で伝えていんだよ」などと声かけ

   しても「別に−−−」 「嫌いじゃないし−−}などと反応する。それは決して

   「自分の嫌いな気持ちをちゃんと感じとってた上で、それを我慢しよう」といぅ

   セルフコントロ−ルができているのでなく、自分の気持ちにそもそもあまり実感を

   抱けていないような感じだという。そしてそういった

   子供がある時、急に切れて暴れたり、あるいは心身の調子を崩して学校に来なく

   なったりすることもあるという。   

   また、ある中学のの先生が、進路や成績についての三者面談に関して、「前は教師の前で

   親子が反目したり、言い争ったこもあったけれど最近はそういうことがめっきり減った。

   でも親子がちゃんと 話し合っているかというとそうでもない。親の言うことに

   当の子供がどう感じているのか、それが読み取れない子供が増えた印象を受ける。

   ”君自身の意見は” ”親御さんの意見に君はどう感じているの?”などと子供に話を

    振っても”あ、べつにそれでいいです”などと他人ごとのように

   返事をしたりする。結局、子供の気持ちや本心が分からずじまいになったつもする」

   と言われたことがあるとのこと。

         安易には論じることはできないもの、もし自分に気持ちがあることをリアルに感知

   できていない子が増えているとしたら、そういう子が概して「気持ちを言葉にできない」

   のはごく当たり前のこととなる、とのこと。逆に子供が自分に気持ちがあることを

   体得していくのは、どんな過程を踏むのか?

   次のような子供の生育過程でそれを習得することを述べています。

   乳児が入浴中、気持ちよさそうにしているとき、大人から、『お風呂、気持ちいいよね。」

   と声かけをされていくことを通じて、幼児は、「ああ、こういう感じを気持ちよい

   といいうんだなあ」と感覚的につかんでいく。また、急に大きな物音して乳児が

   怖がって泣いたりしたとき、大人が、「怖かったね。びっくりしたよね」とか、

   あやしながら「でも、もう大丈夫だよ」などと言葉をかけたりすることによって

   「怖い」 「びっくり」 「大丈夫」ということばが、自分のある状態を表現する

   ものだと受け止めていけるようになる。

   こうした日々の集積が、乳児の、聞いて理解できる言葉を増やし、ひいては

   自分の話す言葉につながる。このように、自分の気持ちにふさわしい言葉を大人から

   投げかけられることを通じて、子供は自分に気持ちがあることを把握し、

   同時にそれに見合った言葉などの表現を学んでいくこともできる。

   それが一般的な発達の道筋であることを考えると、「自分に気持ちがあるとわかって

   いない感じのする子」とは、筆者は次のように考える。

   (やや乱暴な総括となってしまうが、と前置きして)自分が気持ちを表出したときに

   周りの大人から適切な関わりをもらえないできてしまった子供と言えるのかも知れない

   とのこと。

   例えば、子供が気持ちを表しても、いつも大人から無視されたり、悲しい時に

   泣いたりしても「泣くんじゃない」と罰せられたり、本人が落ち込んでいる時に

   嘲笑されたり、といったようなことが日常的に続くとしたら、その子にとって、

   自分の気持ちが自分に親しいものとは思えず、異物化していくことは、想像に難くない

   とのこと。(まさにすでに幼少期で経験する自己疎外感なのです)

   ですから、自分には気持ちがあるということに「安定した足場をおきにくくなってしまう」

   ことだろうと筆者は述べています。このような具体例を本人のプライバシ−に留意し

   て語っています。

   カウンセリングで会ったある人が「多分もの心がつくような幼い時から、自分で自分の

   気持ちが分からない感じになっていた。いつも親が喜ぶように、親に怒られないように

   と気を張って暮らしていた」と、例えとて次のようなエピソードをを語って頂いた

   とのこと。

   幼稚園の頃、親の誕生日に粘土で手作りのものをプレゼントした時に「ありがとう」

   と親に受け取ってもらったものの、ふとみたら、ゴミ箱に捨ててあったという

   その時、「とても変な気持ちがしたけれど、それを親に言ってはいけないととっさに

   思って、その後もずっと何でもないふりをしていた記憶がある」とのこと。

   また、小学校の頃、テレビでお笑い番組を見ていて思わず大声で笑った時「はしたない」。

   そんなくだらないもので喜ぶなんて」と言われ、それもあってか、

   家庭内で自分が笑ったりするのも、親が笑っていたらそれに合わせて笑うという

   癖がついたという。このような癖は、自然に身につくと思いやすい。

   しかし、「自分には気持ちがある」とわかっていても、それか゛阻害されることもある。

   つまり、周りの大人から自分の表出する気持ちを受け止めてもらうという関わり

   があってこそ、その気持ちを大人に伝えることが成り立つということを、

   第一義的におさえておきたい、と筆者は述べています。

   ◎ 周りの大人の「本人を暖かく包む包容力」がその後の人間形成「発達課題の克服」

   に関係することを痛感しました。ある若者の集会で、ある女性の職場で、

   自分の気持ちも、思いも皆に合わせていくいくことが苦痛と訴えていたことを

   想起しました。  

 

 

 9月14〜15日 気持ちが言葉になるプロセス その2

   9月14〜15日 気持ちが言葉になるプロセス その2

   (2) 子供が、自分の色々な気持ちを大切にして良いと分かっていること

  ここでは、本日コ−チAの鈴木義幸先生から配信されてきた「レジリエンス」のことに少し

  触れてみたいと思いました。(この単元の終わり当たりにその良き学びの機会を感じます)

  鈴木先生の指導先は、企業の指導層が対象ですが、「レジリエンス」は、子供の世界にも当て

       はまることがあると直感しました。この言葉の意味は、回復力とか、逆境を乗り越える力と

  いった 意味て゛、「肯定的意味」、例えば「先生にほめられた」とか「こんな楽しい

  ことがある」などは、親や教師に気持ちよく受け止められやすいのですが、「否定的意味」、

  例えば「級友とのけんかの場合の頭にきた」とか「先生はおかしい。ぼくが悪い訳ではない

  のに僕だけ叱って」と言った場合、筆者によると、これらの場合では、大人にとって

  気持ちを聞くことは、一挙に困難になるのではないかとのこと。

  「そんなことで怒るべきでない」とか「そんな言わないで−−」とかつい、言って

   たしなめるとのこと。

   筆者によると、大人がそういう対応をしがちな理由はいくつかあると思われる。

  その大人自身が自分の否定的や気持ちを、よくつかめておらず、怒りや悲しみ、

  あるいは、やりきれないといった否定的な気持ちを基本的に感じたり、出してはいけない

  と思い込んでいたりする場合もあろう。

  もし大人がそう思い込んでいたりしたら、当然子供からのそういった思いの発信を受け

  止めることは至難の業となる。或は、子供の否定的な思いに耳を傾けることは、

  単に子供をわがままにしたり甘やかしたりするだけと曲解している場合もあるかも知りない。

  そのほか、子供の否定的な気持ちに耳をかしたりしたら、自分も一緒にしんどくなり、

  下手をすると共倒れになりそうといった不安から子供の否定的気持ちにふたをしたい

  といった心性が働くような場合もあるだろうと。

  しかし、それらの場合よりもおそらく一般に多いのは、怒りや悲しみ、やり切れなさと

  いった思いを子供が表出したとき、それを早く子供から取り除いてやりたい、と大人が

  慌てたり、焦ったりすることではないだろうか?との筆者の危惧。(まさに「愛は盲目」

  になりうるのです。しかしこの後の記事を通読していくと、子供は、大人に語っているのを

  受け止めてもらうと、次第に冷静さを回復し、自分を客観的にみれる(外在化 )も可能に

  なれば「レジリエンス」(回復力、逆境を乗り越える 力への道か゛ 開けます)   

  けれども、上記の「親心」もそのような対応を続けると、子供は「自分の否定的な気持ちは

  この大人にわかってもらえない」と感じ、「この大人の前では,(受け入れてもらえる

  気持ちは表出できるけれど)

  わかってもらえない気持ちは出せない」な゛と思いこむようになりやすい。そして否定的

  気持ちを押し殺したり感じないようにしたりすることは、子供にとって大きなストレス

  となるし−これは大人にとっても同じくストレスとなることだが−また、時には、否定的な

  気持ちだけでなく、「楽しい、嬉しい」といった肯定的な気持ちも、余り感じなくなる

  というようなことも起こりかねない。気持ちが平板化し、いつの間にか管制が

  鈍磨したり、したり、意欲そのものが希薄になったりもしやすい。−−−−−−

  怒りは自分が相手から十分に大切にされていないときや誤解されたりしているときなどに

 「それは嫌いだ」「このままでは困る」などと感じる気持ちとつながっている。

  つまり自分で自分を守ることや自分の価値を保つ(存在価値)を保つことに、

  怒りの気持ちは寄与する。

  怒りに関してまずいのは、怒りの気持ちを感じることやそれを表出することではない。

  その怒りの気持ちをうまく表現できず、誤った表現である攻撃行動、、例えば暴力、

  暴言、弱いものいじめ八つ当たり、相手を無視したり、陰口を言ったりするなど−として

  表してしまうことて゛ある。

  また哀しみをだれかと共有したり、慰められたリ、慰めたりすることを通して、

  人は心のつながりを純粋に実感しやすいと言われる。哀しみを感じとれるということは、

  それだけの豊かな感受性が息づいている証左(証拠のこと)とも言えよう。

  上記の怒りの気持ちの表現が上手くできないのと対照的な例として

  人の繋がりの例をあげ、否定的気持ちが大人に受容されていく例へ進んでいきます。

  さらに、「もうやってられない」などの弱音を子供が口にして伝えてくるということは、

  子供に「この大人は、自分の気持ちを受け止めてくれるのでは」との期待があるからこそ、

  と言える。

  弱音を吐いたら叱られるだけ」 「どうせ、聞いてくれやしない」などと思っている大人に

  対しては子供は自分のやりれない思いをなどの真情を表出しえない。−−−−

  子供は,自分の否定的気持ちについて上手にまとめてわかりやすくなど表現できない方が多い。

  それでも大人にそういった気持ちを話すということは、子供の側に、この大人に

  「まとまってなくても自分の思いを放ってもOKだろう」 「なんか受け止めてもらえるん

   じゃないか」といった期待をこめた値踏みや信頼感があるに違いない。

   子供が自分の否定的な気持ちを感じとり、それを話したい相手に言葉でちゃんと

   話せるということは−それが否定的な気持ちの対象者と向き合うことであっても、あるい

   誰かに相談するということであっても、−その子供のストレス、対処能力や

   セルフコントロール力の育成という意味からも非常に重要となる。

   (このセルフコントロールは自分のいらついた気持ちの自制ができれば、自己肯定、

   自信へと進み、他者に対して受容できる(アサ−ティブ)ようになれる道がひらけると

   思います。)

   それができる(セルフコントロールのこと)ようになるには、子供の色々な気持ち、

   その中でも怒りや、やりきれないなさといったような否定的な気持ちにも大人から理解を

   得ようと耳を傾けてもらえるという関わりが必要となる。大人に耳を傾けてもらえる

   ことを通じて子供は徐々に自分の否定的な気持ちに自分で耳を澄ますことも、さらには

   それを自分でコントロールすることもできるようになっていく。

    ◎ ここの最後の太字の言葉で障害者の自立支援の核心に触れていると痛感します。

     忍耐強い愛の一語に尽きます。この単元の最初に述べました鈴木先生の

      「レジリエンス」 (回復、逆境を乗り切る力)にも関係しています。

 

 

 9月16〜17日 気持ちが言葉になるプロセス その3

   9月16〜17日 気持ちが言葉になるプロセス  その3

 

   (3)子供が自分の気持ちにふさわしい言葉を使えるようサポ−トされること

   この表題では、自分の気持ちと共に相手も意識したアサティブな言い方も意識した内容と

   感じられます。他者との共存の問題をクリアする発達課題に関わる問題に直面します。

   筆者のいうサポ−トとは、一つは、大人が子供の感情の動きに応じて、教え指示すること

   もう一つは、子供の発達の状況に応じて、本人の直面する問題について一緒に考え

   本人から気づきを促し適切な対処法(その場に応じた適切な言葉や行動などを引き出す)

   ことではないかと筆者の記事から推測しました。

   * なお、今回の表題についても対人関係療法に精通した水島広子先生の

   「怒りが消える本を」参照されるとよろしいかと思います。

   筆者の見解は以下の通りです。

   子供が、自分に気持ちがあることがわかり、また否定的な気持ちも含めて色々な気持ち

   があることを実感していける過程には、そういった気持ちを言葉にしたとき、大人から、

   「わかるよ」「こんな気持ちなんだね」などと受け止めてもらうこととあわせて、

   その表現への適切なサポ−トをしてもらうことも含まれる。 例えば、前回の

   (2)で述べた「怒り」の気持ちを子供が表現する時、「〇〇、死ね」「マジうざい、

    むかつく」といったような物言いになることが多い。それは普段子供が、生活する中で

   自分の怒りの気持ちを上手に表現する練習の機会がこれまで乏しかったからとも言えるし

   また、大人や社会から「ああそうか、ああいう言い方をすればいいんだな。

   自分も真似してみよう。」と思えるような、良きモデルを得られていないからとも言える。

       (身近な家庭内で、親が短気で、直情的にすぐ声を荒げて子供を叱ってばかりなら、

   子供もそれに似て直情的に反応する習性が身についてしまいます。良きモデルになろう

   とする親の自省努力も不可欠と思います)−−−−筆者の怒りについての次のような見解

   怒りの気持ちとは、子供のみならず、大人も共に、「その気持ちにふさわしい言葉を

   使えるようになる」練習が必要なのだろうと痛感したりする。(その気持ちにふさわしい

   言葉とは、相手の気持ちの高ぶりに対して自ら心を鎮めて語る言葉です、そこから

   共感が生まれます。)

   子供が怒りの気持ちを伝えてきたとき、親、教師の大人は「あなた、何を怒っているの」

   「しっかり聞くから落ち着いて話してごらん」 「そういうわけで、頭に来たのが

    わかったよ」などと、 まずは、子供の怒りの気持ちを頭から否定せずに受け止めて

   欲しいとのこと。そしてその上で、もし子供の表現が暴言だったらり、不適切だったり

   するときには、「あなたが怒ったのはわかった。でも”死ね”という言葉はやめようね。

   代わりに”やめて”と相手に言ってみよう」などと、よりよい適切な言葉でアドバイス

   して欲しい。あるいは「君が友達を叩いちゃったのは、やっぱりいけないことだよ。

   今度君が”嫌だなあ、腹が立つ”と思ったら、友達に”嫌だよ、そういうことされたら、

   僕は 嫌いなんだ”ちゃんと言葉で言ってみよう。君には言葉で伝えていける力が

   あるって、信じているよ」などと伝えて頂けらたらと願うとの筆者のアドバイス。

   この箇所の友達に対する感情として、すぐ「君は嫌いだ」と言ってしまうのを

  「君のどうすることが嫌いなのか」これを伝えことで、相手の反省の気づきを与え

  、仲直りに導く「アサ−ション」へ導く道が開けます。自分も相手の気持ちも大切にする

   手法です。

   もう一つ「君には言葉で伝えていける力がある」この一語は、エンパワ−メント(行動を

   促す励まし)になります。

   さらに筆者は、大人から言い方を提示するだけでなく、子供の発達に応じて、

  「どんな言い方をしたらいいか、一緒に先生と練習してみようか」「お母さんもそういう

   とき、うまく言えないこともあるものね。じゃ共同作戦でしっくり来るすてきな言い方を

   考えてみよう」などと、子供と共にふさわしい言葉を考えることも試みて頂きたい、と。−−

  「ふさわしい言葉を使えるよう大人が子供をサポ−トすることは、大人自身の”気持ちを

   言葉にするプロセス」の研鑚とも言える」と筆者は結んでいます。

   ◎ 「子供が悩みを言葉にするまで」と「気持ちが言葉になるプロセス」の表題に沿って

    私自身も筆者の先生方の記事を通して貴重な学びをさせて頂き感謝しています。

    子供さんたちの成長過程には、クリアしなければならない発達課題があり、それを

    しっかり大人が支援しないと、就労支援時期に支障が生じます。特にメンタル等に

    ハンディのある人々にその影響がもろに出ます。そういう意味では、児童期の

    メンタルの教育の重要性を改めて胆に銘じると共に、現場の目線に立った研鑚に

    尽力したいと痛感しました。

    (放課後のディケアの現場の観察も必ずしてみたい思っています)

 

 

 

8月22〜23日 子供の悩みを出させ、悩む能力を育てる 28年8月 児童心理より

   8月22〜23日 子供の悩みを出させ、悩む能力を育てる その1

           28年8月 児童心理より

         特集 悩みを口に出せない子より 

         精神科医 山登敬之先生執筆

   今回このようなテ−マを選択しましたのは、すでに掲載しています日進市の障害者自立支援

   協議会、関係する専門部会で出た内容に私なり疑問を感じたからです。 

   ともかく、障害者の親やこのような事業に関わる職安、専門家などからは、何とか障害者の

   雇用実績を上げたい気持ちが強く、自治体当局の関係部署の担当者も、それを切望しています。

   しかし、大事な視点の欠落を痛感しました。それは 「自立支援」という言葉のもつ意味です。

   政府の国策の後押しもあって、確かに障害者の雇用率は、上がって来ていますが、折角就職

   したのに、かなりの人は、1年以内に離職しているのが実情です。 

   ただ、雇用実績をあげることに心を奪われて、肝心の障害者の就労に対するする考えや

   気持ちをどれだけ配慮してしているのか私は懸念しています。  

        この筆者は、特別に障害児に限定せず、一般の児童の成長過程での発達課題に焦点を当てて

   います。 障害者の場合どうでしょう。3年ほど前北区のNPOで、就職した先の話を

   していた際、仮に就職しても、対人関係などで不安であり、職場のいじめの経験のある

   彼女は、またトラウマをつくるのではと、不安な気持ちを述べていました。

   学校教育では、各年代の節目 の発達課題にどう取り組んで成果をあげていたか、そのことが

   上記の表題の「悩む能力を育てる」と関連が深いのです。「自立」というハ−ドルは、

   このような長いスパンでの努力が実ってこそ実現するのであって、職安、事業所と

   求職者側との単なるマッチングのレベルの問題ではないのです。

   筆者は、次の二つの事例をあげて、上記の発達課題に関した言及をしています。但しそれらは

   筆者の経験に基づき、個人情報にも配慮したのか創作として述べています。

   1 小1の男の子が母親を交通事故でなくし、1年経過すると不登校になった例

    母の一周忌が過ぎた頃から、様子がおかしくなった。夏休みなのに外へも遊びに行かず

    家の中でごろごろ。些細なことで怒りだしたり、くずぐず泣いたりした。

    二学期が始まると間もなく、登校をしぶるようになった。朝なかなか起きてこないし、

    頭が痛い、腹が痛いとぐずって支度をしない。かかりつけの小児科医にみせたところ、

    特別の病気ではないが、無理をするのはよくないと言われたとのこと。

    そこで医師のとおりにしたが、全く登校しなくなった。

    祖父が担任に連絡をとり、このままではひきこもりになると心配して

    スク−ルカウンセラ−に相談したところ、筆者を紹介されたとのこと。

    この時、筆者には、「対象喪失」、や「喪の作業」*など心理学の基礎知識が

    あったとのことです。

    *大切な人との死別後それによって生じる哀情や悲嘆の悲しみを乗り越えていく心の過程

    独自の「マザコン」理論だけをたよりにしていたわけでない。大切な母親を失った後

    この子の「喪の作業」が滞っている。見ようによっては、邪魔されていることは

    明白であった。

    次の筆者の言葉「この子が大事にされて育ったのもよくわかります。 お母さんを

    なくしたダメ−ジが1年おくれて出てきたかも知れません。母親の死を現実として

    受け入れるまで時間が必要だったのでしょう。それまではぼんやり学校に通って

    いただけ。やっとわかるようになったと思っていたら、今度はまわりがよって

    たかって学校に行かせようとする。

    ”今はそれどころじゃないんだよ”(大好きなママがなくなったんだ)と腹を立てている

    のではないですか」祖父はこの解釈を半信半疑で聞いていたが、具体的話に移ると

    ほっとした表情を見せるようになったとのことでした。次の言葉も聞く人に安らぎを

    与えると感じます。

   「お母さんとお別れがすんだら、元気も出て学校に行けるようになるでしょう。だから、

    今は無理に学校に行かなくてもいい。 元気が出るまで休んだらいいと伝えて、

    安心させて下さい。学校には、医師から、しばらく休養するように言われたと

    言えばいいです。」

   ◎ 今の事例で筆者が強調したいことは、「子供が悩みを言葉にする」ことができない

   場合の「喪の作業」に際しての周囲の者がどう対処するとそれがし易くなるかという

   ことではないかと感じました。

    なお、次のその2では、もう一つの事例を紹介し、7才児の心理特性、発達課題についての

    筆者の見解を紹介します。

 

 

 8月25~26 日 同上(子供の悩み−−−−−) その2

  8月25~26  日 同上 (子供の悩み−−) その2

 

  事例2 悩みを言葉にせず「ひねくれる」子供

 

  「僕が笑っていないと困るでしょう」 小学2年の男子が、プレイセラピイの最中に漏ら

  したこの一言で若い女性心理士Bは動揺した。どうしてそう思うの?問に答えず、

  こうも言った。「楽しんで欲しいでしょう」 何か皮肉にも心理士の心を見透かしたような、

  大人をおちょくったような言い方です。この心理士は教育研究所でこの児童を担当する

  ようになって半年が経つ頃、ようやく関係ができたと感じていただけにショックだった。

  楽しく遊んでいるように見えたけれど、そうじゃなかったんだ、この子。あたしに

  つきあっていただけなの。(子供なりに演技していたに過ぎない)

  児童はADHD(注意欠陥多動性障害)という診断で児童精神科に通院しいた。病院を

  最初に受診したのは、1年生2学期の初めの頃、だった。

  母によると、就学前は保育園に通わせていたが、特に心配はなかったという。発達上の

  問題を指摘されたこともなく、療育の経験もないとのこと。ところが小学校に入学してからが

  大変だった。授業中の立ち歩き、教室からの飛び出し、クラスメイト同士の衝突。

  担任の注意には耳を貸さず体を押さえて制止ししようものならお騒ぎになった。

  担任から初めて報告を受けたとき、母は驚いた。

  家は母子家庭で子供一人。親から見たら手を焼かせる子ではない。ゲ−ムや漫画の他にも

  面白いものを見、一人で遊んでいる。

  心配になった母親は、仕事の休みをとって、授業参観に出かけた。確かに家とは違っていた。

  後ろをちらちら振り返るのは親を意識してのことだろうが、終始もぞもぞと体を動かしたり、

  机に突っ伏したりして落ち着かない。授業は全く聞いていない様子だ。

  担任との面談では、ベテラン風の女教師にこういわれた。「いつもあんな調子なんです。

  教室を出ていないだけまだよかった。」(まさに生徒として見る目なく、お荷物の感じが

  伝わります。ベテランの教師なら日頃どんな努力をして苦労しているかも話すべきでは

  ないかと感じます。)

  この対話からは、この子に対しての悩みを共有する姿勢は全くなく、親が叱責されている

  みたいです。私も中学生の担任していた時、特殊学級へ移すことを考えていたとき、

  その子の父親と面談しその移すことは、父子の主張を配慮し、とりやめました。

  その後がらりと本人の態度が変わり、社会科の授業の中でも参加し、指名して質問すると

  彼なりに答えていました。

  何といっても面談の後父親が「一杯飲みに行きませんか」この言葉にほっとしました。

  父親との意思の疎通が大きかったと想起しています。少し脱線しましたが、この問題の子

  については2学期になっても、学校の様子は変わりなく、夏休みに予約していた

  児童精神科のクリニックへ子供をつれていった。何回かの診察と検査の結果、医師から

  ADHDと言われ、治療薬が処方された。

  前後して教育相談所にも通い始めた。母子別々に担当の心理士が1名ずつついた。

  検査では、知能は全般に悪くがないが、目でみたものより、耳から聞いた情報が入り

  にくい特徴があった。 算数の点も低いということだった。勉強がわからないから

  学校が楽しくないのかも知れない。

  母親はそう考えて、子供を補習塾に行かせることにした。 また、学校側の勧めで

  2年から特別支援学級にも週に半日通うことになった。新学期にクラス替えがあったが、

  担任は変わらず、母親は落胆した。そんな母親の苦労にもかかわらず、息子の学校での

  態度は改善の気配すら見られなかった。

     上記の息子についた心理士Bは、筆者の大学院の教官のころの教え子で、現場に出てからも、

  たまに相談に来ていた。「先生、この子、本当にADHD]なんですかね、どう思います」

  「待て待て、それより気になるのは、さっきの言葉だ。僕が笑っていないと困るでしょ。

  と言って大人を困らせる言い方は、つまらないだの、飽きた、だのと言って

  大人を困らせるより、ずっと手が込んでいる。

  困るでしょ、といって大人を困らせる意図はどこにあるのか。」

  う−ん−−とBは考え込んだ。筆者は、返事を待たずに続けた。「子供がその言葉を

  ぶっつけたいのは母親だろう。普通の男子の気持ちは、ぼくが遊ぶ、ぼくが笑う、

  ママも笑う、ママが嬉しそう、だからぼくも楽しい。ところが、こいつは、多分こう

  思っているね。ぼくは、楽しくもないのに遊ばなきゃけない、

  笑いたくないのに、笑わなきゃいけない、そうしないとママが困るから。つまり、

  この子は、ぼくがつまらいといえば、ママが困る、ことを知った上で、この言葉を口に

  したと考えるべきであろう。逆に言えば

  この子は、ママを困らせたくない、と思っているということだ。」なぜなら−−−。

  「すべての男は、マザコンだから」とここでBが口を挟んだ。

  続けて筆者は、次のように語り出した。そうでなくても(マザ−コンプレックスのこと)

  こいつは、小学生になってからママを困らせる悪い子になってしまったことに、それなりの

  思いがあるはずた。

  (それなりの−−は、私の想像です)じゃあ、良い子にしていればいいのだが、そこには、

  ADHD的特性が 邪魔して、したくてもできないのだろう。

  「でも、この子は就学前まで発達に問題はなかったっていうし、ADHDなら生まれつき

  でなきゃおかしいですよね。薬だってあまり効いていないしみたいだし−−−。」Bが

  話を蒸し返すので、筆者もそれにつきあうことにした。

  子供の行動は環境に左右されるところが大きいなじみの場所。それに対して小学校は

  初めて出会う子供が大勢いるし、様々な刺激にあふれ授業中は一定の時間じっとして

  いないといけないし、たいそう居心地が悪かったに違いない。

  入学後ADHDらしさが開花する子供もいるにはいる。薬はだれにも効くわけではない

  ので効果の程がそれを否定する根拠にならない。しかし、診断には注意が必要。

  それよりも、ADHDであろうが、なかろうが、大事なことは、子供の言葉にちゃんと耳を

  傾けることだ。

  −−子供がひねくれるには、それなりの理由がある。ひねくれた子は間違いなく欲求不満と

  考えていい。

  との筆者の見解。寂しい思いをしているのだ。それは母子家庭だからではなく、

  「クラスのみんなと同じにできないこと、その悔しさを誰にも分かってもらえないことだ。

  特に一番わかってもらえない相手、母親がわかってくれないこと。それが一番こたえている

  のだろう。」

  母親は、ADHDと言われ、息子を何とかしなくてはという思いばかりが勝って肝心の

  わが子の言葉を聞き損なっているのではないか。また、親担当の心理士も、母親自身の悩み

  に応えるのに熱心で子供が日頃どんな言葉を口にしているのか、具体的に問うのを

  忘れているのではないか。

  ◎ 欠落している箇所を的確指摘されているス−パ−ビィジョンと感服しました。

  ADHDの30才過ぎた青年と面談したことがありましたが、子供の時の発達課題が

  クリアされていなくNPOでの利用者、スタッフ参加の 学びに加えようとしましたが、

  自分勝手に口出しするだけで、話の流れにそって発言することができず、若いスタッフなど

  から注意を受けていました。

  母親との関係が悪く、バカ呼ばりしていました。

  でも、この青年が、語った一語「役者は只演技が上手、下手で評価されるのでなく、

  役者の存在そのものに価値がある。」今でもその記録ノ−トに残っています。

  その存在価値とは、逆境の中でも自分なりに学習する能力があるからと言っていました。

  こんなちょっとした言葉の中にも自立支援の

  潜在的可能性を私は期待していますが−−−−−。

  今の日進市の障害者自立支援の協議会では、この自立支援という言葉を殆ど聞けません。

  年齢に応じた発達課題をクリアしていない青年たちのことをどれだけ配慮しているのかと

  とても気懸かりです。

 

 

 8月27日 子供の悩みを出させ、悩む能力を育てる その3

  8月27日 子供の悩みを出させ、悩む能力を育てる その3

       <大人の立場で子供の悩みを聞く>

     筆者は、その1とその2の例を通して児童期の精神発達について次のように要約しています。

  1 客観的にものを考える

  7才頃になると、子供は、言語を思考や記憶の道具にして客観的にものを考えるようになる

  2 抽象的思考ができ、自分の行動の反省、修正、大人への反抗

  11〜12歳ころになると、自我の成長がこのように進む。

  (遅くても、10歳ころには、人の気持ちがわかると言われています。)

      3 生活空間の広がりと人間関係の拡大

    家庭から学校へ、家族から友人や他の大人たちの集団へと拡大

    このような環境の変化の中で自制や他者理解を学ぶことでも成長する。

  4 児童期の後半の同性の友人による結束力の強い集団の形成

    異性を強く意識し、性役割を自覚する

  児童期は人の社会化の進む時期であり、その過程で子供は自意識をはっきりともつようになる。

  この時大切ななのは、自分を正当に評価し、信頼する力を身につけることである。それが

  できないと劣等感を強くし、ものごとに意欲をもって取り組めなくなる。

     (エリクソンのいう自己同一性の基礎がこの時期に起因していることがわかります。

  ですから、障害者の自立支援を問題にする場合、就職してすぐ役立つパソコンその他の技術の

  習得、対人関係の礼儀作法などを指導することも必要ですが、自分の存在価値に自信を回復する

  ような教育も不可欠と痛感します。)

     それから、「子供の悩む能力を育てる」ことに関して以下のように筆者は述べています。

  本誌(児童心理)のような書物では、「子供の気持ちで」 「子供の立場で」といった言葉を

  よく目にするが、どうも自分も含めて欺瞞的でよろしくなかった。子供の立場に

  立てる大人は少ない。

  大人の事情を考え、大人の都合で動いているのが大抵の大人。それをわきまえたうえで、

  子供の気持ちを見誤らないように気をつけるながらそれを汲んで話を聴くというのが大人の

  態度であろう。聴いた以上何とかしてやらねばならい。しかし、目的はその悩みを取り

  除いてやることではない。

   その点を要約すると臨機応変にふるまえ。本人の状況に応じて。

  劣悪の環境の中に置かれている悩みなら大人たちの力で解決してやる必要がある。

  その悩みが誰でも通る未知の上にあるなら、黙って見ていてやればよい。上手に悩めない子

  にはものの考え方を教える。強情な子でも言い分はちゃんと聞き、考え方に間違いが

  あれば正すなど。

  それこそ大人の立場からすれば、子供の悩む力を育てることは重要な課題と言える。

  それは、言葉を育てることであり、待つ力をつけさせることでもある。

  その過程で、子供は、自分を知り、世の中を知る。子供同士が悩みを語り合える関係づくりも

  これまで以上に取り組まなければいけない課題だろう。

  大人たちのこうした働きかけが、やがて来る思春期に向けて子供たちとの信頼関係を築く

  土台になればよいと思う。

  ◎ こんなスピ−チの出来る文科省の大臣がいると日本も数倍ましな国になると思います。

   悩みの言葉を出すとはCBTでいう【自己の外在化」です。客観的に自己観察できるのです。

   それは、「悩む能力」に向かわせ、逆境を悩む同士とともに克服する力」につながります。

 

 

8月17日 顔の張と心の張    障害児の保育現場で重症を負った60代の保育士の面接で感動したこと

  8月17日 顔の張と心の張  障害児の保育現場で重症を負った60才代の保育士との

                面接で感動したこと

    この労災事故につきましては、今年の5月4日の社労士のブログに掲載されています。

 今回の記事は、お盆前に本人とカウンセリングをしたときの印象を綴りました。

 前回本人とお会いしたときは、事件の翌月で、まだ怪我の痛手がかなりあったせいか、本人の表情も硬く

 生彩を感じませんでした。しかし、お盆前にお会いしたときは、何か別人の感じさえ受けました。

 先月の主治医の先生から診せて頂いたX線写真で心配していましたが、かなり痛みがとれていくようで

 元気そうでした。「顔に張があるね」というとうれしそうでした。色々ととお話している中、本人の主訴を

 聴くことができました。事件の起きた時、11歳ながら体格のよい女児に膝の裏を不意に、強く

 キックされ、靭帯損傷、骨折の大怪我ですので、激痛が走って誰だって悲鳴をあげるところです。

 でも声を上げず激痛をこらえて起き上がったそうです。もし自分が悲鳴をあげれば、そのダウン症児は

 たちまち、「悪者」にされ、スタッフから叱責され、それこそその女児の人生にトラウマのようなしこりを

 残すことを瞬時にひらめき、大事にならないように我慢したとのことです。

 プロの保育士の魂を感じると共に、こんな苦境の中でもこんなことまで思いやれる愛情の強さも

 同時に痛感しました。 100%もとの体にもどれないにしても、かなり現場の仕事を自分の体調に

 応じてこなしていくのではないかと、理事長も同感しています。それが心の張として顔に出ている

 のです。 なお、私個人としは、この保育士のような自己犠牲的愛情を他の保育士の方々にも

 要望するつもりはありません。今回苦痛の中で瞬時感じとったことは、まさにロジャース氏が説く

 本人だけに当てはまる「心的事実」なのですから。 

 他の保育士の方々も生活がかかっていますから、この人のような思いやりよりも、自己防衛が

 まず出てしまい、痛みをこらえることなく叫び声をあげ、加害者の子供の叱責、事故に対する責任の

 追求問題も出てくると思われます。 この問題は勿論時期を選んで、慎重に話し合いをして

 再発防止が不可欠なことは皆さん認識しています。

   しかし、今回の記事は、カウンセリングの観点から述べてみました。

 

 

 7月26〜27日   傾聴によって生まれる「心に寄りそう」支援 その1

   7月26〜27日 傾聴によって生まれる「心に寄りそう」支援  その1

        放課後の児童クラブに集まる子供たちに 高垣忠一郎先生執筆

        児童心理8月号より

   ここ数年、私は、青年等のメンタルヘルスに関わる仕事をしていくと彼らの成育歴に

   関心を持たざるを得なくなりますし、また発達障害等の特別支援学級を設けている

   NPOとも関わりもあり、児童心理の専門書等も時々目を通しています。

   以下の記事は高垣先生によるものです。

   ▲ 子供たちはいま

   子供たちは、いま楽しいことやうれしいとは親に話すが、つらいことやしんどいことは

   親に話さない。それはペットに話す。その心は、「ペットは黙ってきいてくれるからだ」。

   ある子はいじめられて学校へ行けなくなったことをカウンセラ−の先生に話してくれた

   とのこと。でも母親には話さない。

   夜遅く疲れて仕事から帰ってくる母親に、自分がいじめられていることなど話すと

  「おかんが余計しんどくなる」と心配する 少子化の中で親からお金や愛情を集中して

   育てられいるから、子供は親の期待に応えたいという気持ちか゛強い。

   多くの親の期待は、子供が毎日明るく、元気に、楽しく学校に通ってくれることである。

   だから、学校でいじめられていることを子供は親に話さない。いじめられて学校に楽しく

   通えない自分は親の期待に背いているからだ。いわんや不登校の子供は、学校に行けず、

   親の期待をもろに裏切っている。「親の期待を裏切って申し訳ない」

  「こんな自分は消えた方がいい」と自分の存在そのものを否定する気持ちにまで追い込まれる。

   そんな特別なつらさを抱えた子供でなくても「競争に負けるな。頑張れ」と叱咤激励され

   多くの子供が親や先生の期待に叶う「よい子」でないと「見捨てられる」という不安を

   抱えて生きている。終始成績の優劣を比べられる子供たちは、成績という

   部分的な数値の良し悪しによって自分の存在価値まで決められてしまうような気がして

   生きた心地がしないのである。

   ◎ ここの「成績によって自己の存在価値まで決められてしまう」の表現には、私が中学の

    教職に着任した頃、如実に痛感し、生徒の前で、逆に「成績が本人の人格をきめてしまう

    のではない」という意味のことを話したら、「ある生徒は、そのことを保護者会で言って

    欲しい」といったことを覚えています。その学区は、高度成長期の中で斜陽産業地区から 

    大都市へ移動した親たちの子弟の集まる地区で、両親共に働く家庭が多く

    親の子供に対する期待感は強く、がめつく点数を稼ぐ、そんな感じの生徒も多かったと

    思います。

    ▲ 子供の心に埋め込まれた「地雷」と「警報」 

    前項に述べられたような子供の心には「不安」や「恐れ「焦り」「傷つき易さ」など

    色んな感情があるが、子供はそれを話さない。それらは見えない「地雷」のように

    心の深くに埋め込まれている。狭い教室に多数の子供がひしめく環境の中で、

    気づかずに、お互いの「地雷」に触れて爆発させ傷つけ合う悲惨な情景が

    筆者の目に映る。「いじめ」や「いじめ自殺」もその表れと筆者には見えるとの

    ことです。  つらいことや、しんどいことを大人に聞いてもらえない

    子供の中に、言葉にできない不安、恐れ、焦り、痛みなどが埋め込まれる。それは、

    何かのきっかけで爆発する。一つは、暴力、器物破損、万引き、いじめなどの

    「問題行動」となる。

    (行動化)

    もう一つは、腹痛や頭痛、発熱などの「身体症状」となる。(身体化)それらは、

    子供たちの言葉にならない訴えであり、「警報」であるとみてやらねばならない。

    自分の中に「地雷」のように埋もれた感情があるという「警報」だ。だとすれば、

    私たち大人は、その「警報」が何を訴えているのか

    しっかり聴き取る耳をもたなければならない。そして耳を傾けて、そのつらさや

    しんどさを、しっかり聞き取り、心に埋め込まれた「地雷」を無害にする手伝いを

    してやらなければならない。もし、大人が埋め込まれた地雷の処理を手伝わないで

    厄介な「警報」を「管理・処罰」や「薬」で消し去る対策を

    しただけで、それで問題が解決したなどと思っていたら、大変な誤りである。

           ◎ 「心の地雷」を抱えた思春期前の子供達が直面するこの問題。このような問題こそ

    徒に対症療法の管理処罰で済ましてしまうのでなく(例 私も生徒指導部の一員として

    このような仕事に関わっていたこともあり、何か責められる心の痛みを感じます)

    筆者が説く「地雷」を無害にする手伝いはどの当事者の子供さんたちと向き合えばいい

    のでしょうか?このようなときこそ、教育者としての真価がく問われます。

    ありきたりのカウンセリングでなく、子供の目線にたった「彼らの心の痛み」に

    共感できる愛が問われると痛感します。ここでもふと想起するのは教師も子供も互いに

    顔を見合うだけでなく、同じ方向を向けるかどうか」ではないでしょうか?

    (管理教育の視点の修正が求められます)

 

 

 7月31〜8月3日 傾聴によって生まれる「心に寄りそう」支援 その2

   7月31日〜8月3日 傾聴によって生まれる「心に寄りそう」支援 その2

           ここでは、過日の日進市の障害者自立支援協議会で、T先生が話された「障害者の差別解消」に

   関わる記事を通して障害者の権利擁護の筆者の見解を参考にしてこの擁護の問題に言及

   したいと考えています。

P1010029.JPG

        花も人間関係も調和があってこそ美しいのです。生け花の技法も撮影も鈍臭さ

        丸出しですが、そこに私らしさを見て頂ければ幸いです。あるその道達人は

        「あなたのまねはできない」と言っていました。鈍くさいところが私の存在価値かも

        知れません。 

 

  ▲ 傾聴と日本国憲法13条・子供の権利条約12条

   筆者は大学教員をやりなから病院の精神科でカウンセラーもしてきたとのこと。カウンセラ−は

   心に悩みを抱えた人の言葉(気持ち)i耳を傾けるのが仕事。その人の目や心には、この世界や

   自分自身がどのように感じられているだろうか?そのことを理解しようとして、その人の語りに耳を

   澄ます。それは、憲法13条の1「すべて国民は、個人として尊重される」という文言を直接具体化

   する仕事のようにも思える。

              その文言を筆者流に言い換えるなら、「自分が自分であることを尊重される」ということであり、

   「自分が自分でなくなることを強制されない」ということだ。それは、一人ひとりが人生の主人公

   として、尊重されるということである。相手をそのように尊重すればこそ、その主人公の目や心に

   この世界や自己がどう見え、感じられるか、その主人公に寄り添いその人の立場に立って理解

   しようと努力する。この「個人として尊重される」という精神は当然子供にも適用される。

   子供は、未熟な成長・発達過程にいる存在。たから保護を必要とする一面あり。

   しかし、同時に権利主体であり、個人として尊重されなければならない存在でもある。

   大人だからといって上からの目線でそれを軽んじることは許されない。以上のように筆者は説いて

   います。  さあ、この文言を私は、障害をもった青年の集会で読み上げて、彼らの反応を

   知りたいと痛感しています。 時々私が引用します名駅近くの低空飛行の「ひきこもりの集会」

   (正しくは、ひきこもり経験者の集会)なのです。でもNPOの利用者さんと同じくここに集う人々も

   私は、殆ど隔たりを感じません。その理由は、この集会でも、NPOしても、自分のありのままに

   素直に語ってくれるので、一般の人と異なりそのままを受け取れるし、ハンディがありながらも

   結構努力していることが分かり、 実社会での就労体験の話を聞くと、つらいことがあっても、よく頑張って

   いて、つい『あなた方の存在はそれなりに価値がある」と褒めたくなる思いに駆られ

   ます。 とは言え、母親から「福祉手帳を持っていることを、人に話すな」

   と言われて憤慨したという話を聞くと、上記の筆者の「尊重」という言葉の裏を知って、とても悲痛な

   感じがします。このようなことを考えますとと、障害のある児童期の子供さんの「障害者への

   差別」で日頃感じていることと、(先輩の青年たちの方が望ましいと私は思いますが)

   それを聞いた親、企業側の人、その他の市民の意見を述べる研修の開催を切望します。

   単なる一二度の集会で終わることなく、市当局の関係する方々も条件整備で支援して頂けると

   いいと願っています。

      <子供の権利条約について>

   この条約は、子供を権利主体として尊重することを謳っている。子供の指導に当たって、その

   「最善の利益」を考えるに際してもおとなが勝手に判断するものでなく、こどもの「意見表明」が尊重

   されなければならない。(12条意見表明権)。との指摘は私の考えていることと合致します。

   しかし、この意見表明について、筆者はつぎのようにかんがえています。

   「この場合意見や見解をおとなのそれと同様に理解するだけでは、理解が狭くなると私は感じる。

   幼い子供たちは、決して自分に見え感じる世界の姿を明確に言語化できるとは限らない。

   だから、明確な言葉のレベルでなくても、非言語的な行動やイメ−ジ、時には症状」などを通して

   子供が訴えようとしていることまで範囲を範囲を広げて、その意味をとらえる努力をおとなはすべき

   であると考える」 

   ◎子供を個人として尊重する筆者の熱い思いが伝わってきます。

   特に障害児の場合、この筆者の主張は胆に銘じます。

   最近の私の関わるNPOのダウ症児の保育士を強く蹴って大怪我を負わせた事件にしても、

   相手が相手だけに仕方ないではなく、日頃の家庭での療育実態はどうであったのか、

   この特別学級でこの子と担当職員の意思の疎通に関わる教育はどうであったのかが

   検討が不十分だと今後たの子供さんとのことにも関係してくると懸念しています。

   筆者の強調する非言語的な要素の行動、今回のような職員への暴行は単なるわるふざけ

   として済ませてしまうと何か禍根を残すかも知れないと私は感じます。

   (事業所のみならず、この子の今後ことでも)

 

 

8月5〜6日 傾聴によって生きる「心に寄りそう」支援 その3

   8月5〜6日 傾聴によって生きる「心に寄りそう」支援 その3                               

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                                 オリエンタルゆりとアルストルメリアの組み合わせ

 

   ▲ 子供をみる二つの目 「共感の目」(やさしい目)と「評価の目」(きびしい目)

    つらいことやしんどいことを抱え、それを周囲に言わない子供の心には見えない「地雷」のように

    否定的な感情が埋もれている。そういう子供の実態を見るとき、子供を二つの目で見ることの大切さを

    一層筆者は感じるとのこと。二つの目とは、まず子供の目に周囲がどのように見えているのか。

    その心にどのように感じられているのか、それを子供に寄り添い子供の目線で「共感的に理解する目」

    である。もう一つは、人間として大事な力を子供がちゃんと身に着けて育ってきているか、それを

    客観的に評価する目である。 その二つの目で子供を見るときに、世界が奥行をもって見えるように、

    子供を人間として奥行をもって深く理解することができる。この記事を通読していて、ふと想起した

    ことは、日進市の近郊のある知り合いの公立の小学校の女教師から聞いて、驚いたことですが、

    一年の担任団が校舎の入り口に始業前に待機して遅刻生徒を、だっこして自分のクラスまで

    連れていくことをしていたそうで、親たちの顔色をうかがう管理職の指図でそうしていたようです。

      これは、特別支援学校でなく、普通の公立学校の例ですが、

          たとえ障害児の場合でも、このようなことでは、上記の「人間しての大事な力の育成」にマイナスに

    なると感じました。こんなやりかたでは、親子とも責任能力の妨げになりますし、クラスの頑張って

    遅刻しない子供さんにどう映るかの配慮が欠如していると感じます。

           それから最近主婦も働いている家庭も増えており、中には、厳しい労働条件の中で児童の

    登校が遅れ気味になることだってあります。ですからこのようなやり方は、何か画一的な

    印象を受けます。個々のクラスで皆で遅刻しない規律をつくり、叱責でなく、相互に協力して

    遅れがちの生徒を励ましていく方法が望ましいと考えます。

    私は、小学校に勤務したことがなくて、甘いと言われるかもしれません。しかし、生徒の早い

    時期から可能な限り生徒による自発性を活かした集団形成を提唱します。

      筆者は、「共感の目」 「評価の目」で子供をみるとき、「今一番大切なことは、子供が

    生きている世界を子供自身が自身が自分の言葉で表現できる力を育てることであり、それを

    育てられる条件を早急につくることである。子供たちが自分のつらいことやしんどいことを

    表現しなくなり、周囲の目に子供のしんどさが見えなくなっている今、それは急を要することだと

    強く訴えたい」と主張しています。(私自身もこここの「子供」という表現を”子供”を含めた

    障害者と読みかえて、障害者のつらさ、しんどさ等を世間に訴え、差別解消を日本国憲法

    国連差別撤廃条約に基づいて訴えていくべきことを強く願望しています)

    ◎ すでに述べましたように日進市では、T先生が講演会を通して障害者の親、事業主

      その他の市民に障害者の差別解消について啓発されています。そのような講演会

      に加えて、障害者が自ら体験したことを機会あるごとに話すことは、差別解消に向けて

       インパクトを与えることが出来るものと信じています。

                 なお、先週T先生にお会いする前に、この先生の講演会でどんな参加者との質疑応答が

      あったのか、総務の担当者に情報公開を求めましたが、同日の講演会に集まった人に

      配布した印刷物を入手できたのみで、肝心の当日の記録を公開しなかったことに

      不快な気になりました。

                 日進広報7月号では、参加者から「教えて頂き参考なりました」その類ことが掲載され

      それなりの効果は、評価できますが、一番核心になることが全く触れていないことに

      問題を感じています。それは主人公の障害者自身なのです。

                 「障害者に対する合理的配慮」と行政当局は、よく公言していますが、国連の差別撤廃

      条約批准の際には、この「合理的配慮」は、使用されず、他のブログで紹介しました

      ように、”reasonable accomodation”が原語です。このaccomodationとは

      宿泊施設(食事、快適な休息の施設)ここからして、「障害者をもてなす居場所」のことを

      言っていると私は推察します。 

       日頃の障害者の中々口に出せない、差別に対する不満、怒り、つらさなどを公の場で

      発言できてこそ、「合理的配慮」に関わる大切なことであり、このような弱い立場の人の

      人権が現実の場で擁護されるかどうかということ自体、「日本の民主主義」の成熟度を

      測る具体例と言っても過言ではないと思います。

      T先生のご努力に引き継いで、ぜひ障害者の発言の機会を与えて頂きたいと切望します。

      それから、過去数年間、私か゛直接ないしは間接的に関わっていた若い障害者の

      女性2名が自殺したことも未だに生々しい記憶として心に留まっています。

      そのこともあって今回の講演会のことでどうしても私見を述べたくなりました。 

 

 

 7月14日 障害者自立支援協議会に出た障害者差別解消について

  7月14日 日進市障害者自立支援協議会で出た障害者差別解消について

     先月この支援協議会に出席したとき、障害者の人権擁護の学識経験者のT先生の講演会で話された

  ことを少し説明され、障害者の親や、事業主の方々への啓発がなされたことは、私も大変有意義な

  ことと思っています。最近になって国連の障害者の差別撤廃宣言が採択され、

  その条約に批准しましたが、国内ではそれに関する法が遅れていて、130番目を越えて、後進国並み

  の遅さで批准しました。 それ以来よく「障害者に対する合理的配慮」という言葉が色んな官公庁関係

  から発信されています。この「合理的配慮」とは、今回のT先生のような立場からの啓発も必要ですが

  逆に「障害者の目線から配慮すること」も不可欠と考えます。

    障害者の方々は、年齢が進むともに、親子との対話は少なくなりますし、学校内でも対人関係で

  いじめなどで悩みます。でも、「どうされたいのか」 「どうありたいのか」 「どうしたいのか」このような

  ことなどを話す機会はなかなかありません。私は、上記の協議会の場で、ピアカウンセリングの

  必要性を述べました。北区のあるNPOで私が個別にも、彼らだけの話し合いでも支援したことのある

  Tさんに先輩としての色んな苦労した体験を障害者や父兄の前で話して欲しいと頼んだとき、

  好意的な返事をしてくれました。ですからT先生とは異なった視点から障害者の見解を傾聴することも

  「合理的配慮」の一考察として検討してもいいのではないかと考えます。

    あるアスベルガ−の青年の父親と電話で話していたとき、「あいつは怠けている」いった際

  つい反発したくなりました。彼と仲間の青年と話していた時、相手が「うつ状態の時、何もしたくない」と

  いうと、彼も同感していました。二つとも二次障害に「抑うつ」があることを知っていました。

  親も彼の通院に同行して知っているはずなのにと、痛感しました。 

  ◎ 上記のT先生の講演会についての私見について、市の協議会の運営に関わる担当者に

    打診したところ、私の見解に理解して頂いていると感じましたので、10月の次の会議までに

    可能ならばT先生にお会いして意見交換をさせて頂きたいと思っています。

 7月15日 就職試験に遅刻した障害者の対処法

  7月15日 就職試験に遅刻した障害者の対処法  

  ここでは、前回に出た「障害者への合理的配慮」に関する実例について、あるカウンセリングの

  研修会の場で、職安の職員とは別に、専門職として就労支援に従事している人の発言内容です。 

     丁度ジョッブコ−チや、キャリアアドバイザ−のような感じの職務に就いていて、遅刻した

     障害者の青年をただ叱責するのみでした。もちろん、社会常識の視点に立てば問題なく、即刻

    アウトです。 しかし、本人は、確か発達障害者で、ただだらしなく遅刻したというよりも、

    何か彼の心身に、日頃何か緊張するとと心身の支障が出てくる、といったそれなりの理由がある

  かも知れません。 何らかのハンディがあるにせよ、面接試験にまでこぎつけれたとうのは、

  それなりに本人に会社として期待するものがあるはずです。にもかかわらず、即刻不合格は

  腑に落ちませんでした。 この場合でも、誰かが本人と面接して遅刻の理由を引き出し、

  それを何とか克服して次のステップへ進める手だてを講じることも本人の将来にとって大事では

  ないでしょうか。「転んでも只では起きない」

  こんな気迫をもてるよう支援することは「合理的配慮」にとって必要と考えます」

  このような弱点克服のためにはCBT(認知行動療法)も有効な方法かと思います。

  合理的配慮=reasonable accomodationこれが国連の専門部会で

  重視されたキイワ−ドの原語です。後者のaccomodationには、「便宜」(宿泊施設)

  「調整」という意味もあります。それは、経験しなかった状況、場面への適応も考えれます。

  その際CBTも視野に入れると、結果がどうであれ、当人にとって貴重な学習の場となり得る

  思います。

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