2017年   7月3日 あるハロ-ワ-ク職員のとげとげしい一言

  2017年 7月3日 あるハロ-ワ-ク職員のとげとげしい一言

 

  最近私が長年親しくしている60歳の男性から以下の話を伺って唖然としました。

   本人は大学出の人ですが、事情があって派遣社員として図書館秘書としてかなりの期間

  働いていましたが、体力のこと、職場内のことなどで60才で退職し、再度就職職活動を

  色々としましたが、臨時のパ−ト程度の仕事しかなく、より条件の良い職場を目指しても

  職安の職員の態度が冷ややかで、「私が事業主ならあなたを雇用しない」と言われたそう

  です。彼は、真面目な人で仕事はきちんと責任を果たす人ですが、只マニュアルに沿って

  する定型的な仕事でなく、創意工夫を活かせる仕事をしたいとの希望がありました。

  彼は私の勧めに賛同して再就職にそなえて適性検査に類するものを受け、専門家に相談も

  しています。職安の面接時にもその当たりの資料も提示しているはず。

  なかなか本人の年齢、再雇用され得る能力と求人を対比すれば、支援する側としても

  その達成困難度のハ-ドルの高さは理解できます。でも「私なら雇用しない」というその職員の

  品格が問われる言い方です。精神科医でも、職安のスタッフでもクライアントに何らかの

  希望の指針を与えるのがプロとしての務めではないでしょうか。

  職安の担当者は実績を上げようと焦り、今回のような就職困難者をあっさり切り捨てる

  こんなのが日常茶飯事のようで聞いていてとても悲痛な感じがしました。

  可能なら私の力の及ぶ範囲内でメンタルフォロ-したいと思いました。

 

 

4月30日~ 5月3日  正社員文化のはざまで置き去りにされている者 

   4月30日~ 5月3日         正社員文化のはざまで置き去りにされている者

            毎日新聞論説委員 野沢和弘氏執筆

                                  2016年7月14日の統合失調のひろばより抜粋

    この記事 の「置き去りにされている者」=障害者です        

    ここでも、「障害者の合理的配慮」の出発点としての2006年の国連総会で採択

    された障害者の権利保障と差別解消の採択が起点となっています。

    この権利保障のkey word が 合理的配慮なのですか、原語ではすでに述べました

    reasonable     accomodationで、

    このaccomodationは、具体性をもった表現でして、快適な宿泊施設を

    意味し、私は、「労働者が気持ちよく働く 職場」=労働者の居場所と置き換えれる

    のではないかと思います。そして、職場の環境のみでなく、本人をとりまく

    家庭、その他地域社会等の生活の場も本人にとって「居心地のよい」場であるか

    どうかが問われると思います。   

    筆者は、2006年以後の障害者の国際的動向を背景にした雇用改善の進捗状況に

    ついて以下のように言及しています。

             障害者自立支援法で就労を軸にした政策が展開され、大企業は、主に特例子会社、

    中小企業は、就労継続支援A型事業所を設立して障害者の雇用を積極的に進める

    ようになった。法定雇用率が2013年に1・8%から2・0%i引き上げられると都市部

     中心に労働不足がみられ、企業は、それまで余り馴染みのなかった知的障害者や

    精神障害のある人の雇用にも乗り出すようになったとのこと。当時、厚生労働省の

    調査研究をになっていたNPOが東証一部上場企業にアンケ-ト調査を行ったところ

    すでに多数の企業が知的障害者の雇用を進めており、「積極的に雇用したい」という

    意欲を表している企業が全体の約3割、「雇用する予定がある」と答えた企業も3割近く

    あったとのこと。-----------  しかし、このような雇用率uPのみの表面のみを

    みるのでは、就職はできても、一年以内に離職する障害者、中には3カ月以内の離職者も

    結構いることが報告されています。そのようなことの原因に関する事例として、筆者の

    重度の知的障害者の自閉症の長男のことが出ていました。

    しばらくは、正社員として働いていたそうで、しかし、本社内の障害者担当者が次々

    代わり、「重度の障害者もチャレンジし、それを本社挙げて支える」という設立当初の

    理念が゛薄れていくように感じるようになったとのこと。本人は、些細なことで

    パニックになり、支援職員の手や腕に爪を立て傷つけ、家庭でも他害行為をするように

    なった。本人は、相手の言葉は理解できないが感情を読み取ることは非情に繊細な面が

    あるそうで、プライドも高く、疎外されたり、馬鹿にされたりすることに対しては、

    人一倍敏感に反応し、爪を立てて職員を傷つけるだけでなく、このような些細なこと

    までチェックされ、「問題行動」として否定的な視線にさられ、行動障害を助長して

    いることが筆者の目から明らかだったとのこと。

    しかし、担当者は、「福祉の場ではありませんから。給料をもらっている社員ですから

    きちんとしてもらわなけば困ります」「指導して改善した社員もいます」の一点張り。

     2016年春からは、障害者差別解消法や改正障害者雇用促進法が施行され、職場での

    合理的配慮が会社に求められるようになった。そのことについて筆者が言及すると

    「過度な負担になる場合は義務になりません」という。

     実にまずい言い訳と私は感じます。(まさにpoor excuseなのです)

             障害者の目線にたって彼らの人格を尊重した対応をするのが本来の合理的配慮なのです。

    何となく、面倒なことを避けようとする方便のような気がします。

    筆者の次の意見「建設的な対話して現実的な解決策を模索することなどが定めている」

    以前ブログで私も述べました。障害者に関わる大事なことは、「私たちを抜きにして

    決めないで 」の主張に通じるものを感じます。

    このようなことを理解してもらうことの困難さを筆者は嫌というほど味わうことに

    なったそうです。

 

 

 5月4日~   正社員文化のはざまで置き去りにされているもの その2

        5月4日~    正社員文化のはざまで置き去りにされているもの その2

 

      その1の終わりでは、筆者が会社の合理的配慮について筆者の長男の件で

     問い正すと、会社側は、過度な負担になる場合は、(その配慮)義務に

     ならないとの返答。国連の障害者の差別解消決議ではその文言はなく、

     誤訳でなく、私は、政府筋の作文ではないかと疑いたく

     なります。抽象的表現を使って、企業側の逃げ道を用意したのではと。

     「過度な負担」とは、主観的な表現で、どこまでが適切な配慮なのか

      企業の責任の限度はまさにさじ加減の感じさえします。 

     国連の差別解消決議によるこの障害者差別解消の条約の採択がなされるまでには

     日本障害者協議会(JD)代表田中徹二氏によると、その採択までにはこのJDを

     はじめ日本の障害者団体は、国連の特別委員会に延べ200名を派遣し、世界の障害者

     団体と連携して様々な運動に尽力したぴそうで、その時期に叫ばれたアピ-ルが

     すでに紹介しました Nothing about us without us

     (私たちを抜きにして私たちのことを決めないで)

              田中氏は断言します。    「これが権利条約の基礎をなす理念である」

     とはいうものの、企業側の直接障害者の社員と接する方々のご苦労の

     負担は私なりに理解するものの、上からの生産性向上、業績のX%upなど

     の中で゛障害者の適切な指導と言われても、田中氏の社内の責任者の反発例

     などは、ごく一般的と感じます。

     過日、ある引きこもりob等の集会で職場で困ったこと、腹が立ったことなど

     無記名で書いてもらいましたところ、「あんたが障害者だから、この仕事はまかせ

     られない」など色々ありました。このような上司の言い方に対してどんな言い方

     なら、両者の良い関係が続くでしょうか?

      今のきみだと、不良品をつくってしまう。しかし、 君の努力次第では

      完成品はできる。私も君のぺ−スに合わせて教えるから頑張ろうよ。

      こんな言い方なら相手の心に響くと思います。

      (ある職長教育をしていた時、これから職長になろうとする青年は、うちの

       職長は只自分のやり方を観察していて覚えよと。それに対して、別のベテラン

       職長は、「自分は、相手が分かるとろまで指導する」と。)

     ともかく、働いている障害者が困った場合でも、嫌ならさっさと辞めよと言わん

     ばかりの感じがします。弱い立場の障害者は、泣き寝入りに追い込まれます。

     障害者の相談、救済のセ−フティネットはどうなっているのか知りたいと思います。

       それから筆者は、障害者を指導する心理や福祉の専門職を新規で雇用して

     支援指導員にする場合が多いとのこと。しかし、この点について次のようにその

     問題点を述べています。専門知識は十分にあって知的障害者のことなど知って

     いても、企業の(現場のことなど)ことを知らないということがよくあるとのこと。

     そういう専門職に限って「会社で働くということは福祉とは違う」と過剰に

     意識し、上司や周囲の正社員に気に入られれる従業員になるよう障害者に強いる

     傾向があるように思う。(これはその人の主観によりますが、まああり得るかも

     と思います)

                それに対して、企業内で長く勤めて定年を迎えたシニアが特例子会社の担当職員

     となって第二の人生を歩むケ−スもよくある。こちらの方が障害者に「会社員」に

     なることを無理強いせず、少々できないことがあっても、肯定的にみて指導したり

     するため、結果的に障害者の能力を高め、職場定着もできる場合が多いように

     思うとのこと。ある程度の地位まで努め上げたキャリアがあるため、本社に

     対して臆することなく、障害者を守ることもできる。(この臆することなく−−は

     とても大事なガ−ドです。

     その他の方法として、武田製薬の特例子会社の成功例を専門誌で読んだ記憶が

     あります。それは、障害者の社員の中で信頼できる人が゛出てきた場合、その人を

     リ−ダ−とする場合も検討に値します。

       最後に企業内で知的障害者(その他の障害者も含めて)がやっている仕事は

     本当にその企業にとって必要なものなのだろうかとも思う。必要な本来業務を

     障害者が担っている企業は一体どのくらいあるのだろうか。あまり法定雇用率を

     達成することが優先されて余り必要のない仕事を無理につくり出して障害者に

     あてがっている企業が多いのではないか−−という疑問をもっているのは決して

     自分だけでないはずだ。(自分の長男の知的障害者にどうしてもこだわっている

     感じが強いのが気になりますが)

     この提言については、傾聴に値すると私も思います。

     適材適所の言葉は、障害者には的外れの感じがします。

     ついで筆者は、次のように指摘します。

     現在の障害者雇用の現場は彼らの能力をどれだけ生かせているのだろうか?

     最近は、高学歴の発達障害者が特例子会社で単純作業をしているケ−スが目立つ

     ようになったが、それは彼らの本来の能力を生かしていると言えるだろうか?−−−

     さらに日本の企業文化は、ユニ−クな発達障害と相性が悪い。無理に適応させよう

     としてストレスを生じさせ、うつや行動障害を引き起こしている例も少なくない。

     そうした場合も、原因を障害者側に求め、異質な価値観を受け入れる包容力の

     なさ、彼らの特性に合った指導ができない専門性の欠如を企業側は反省しようと

     しなかったのではないかと。この見解は全てそうですとは判断できないと思います。

     改善すべきことは、障害者側にもありえますから。

     それから、すでに述べました公的機関のセ−フティネットのような仕組みが

     機能することを切望します。

 

4月20日 精神疾患の母 伝える思い 子供たちへの応援 経験もとに絵本に  

   4月20日 精神疾患の母 伝える思い 子供たちへの応援 経験もとに絵本に

        「君は、大事な子どもなんだよ」

   精神疾患の親がいる子供を描いた絵本が出版された。文を担当した「雨こんこん」さんは、

   40代で、子供がいる。双極性障害(躁うつ病)の当事者として、同じ環境の子供たちへ

   「助けてくれる人がいるんだよ」という応援メッセ-ジを送る。

   こんな自分ではいけないと思っても、病気のため自分を制することのできない母親の

   悲痛な気持ちが滲み出ている体験談です。  

   雨こんこんさんは、8年前に双極性障害と診断された。この病気は気分の高揚する「そう」

   と落ち込む「うつ」を繰り返す。代表的な精神疾患で、患者は数十万人とみられるが

   詳細は分かっていない。 あめこんこんさんの場合、うつ状態の時は、家事ができず

   子供と十分関われないことがあった。そう状態では、大声で子供を叱ってしまうことも。

   「自分の子供を伸びやかにさせられなかった」という悔いがあった。

      過去はやり直せないけれど、未来は、変えられる------。双極 性障害の親がいる

    子供たちへのメッセ-ジとして絵本づくりを思い立ち、主治医も背中を押してくれた。

    絵本の題は「きょうのお母さんは〇、お母さんは×」と、病気の状態に重ね合わせた。

    半年ほどかけて昨年8月にシナリオが完成。イラストゃ一部の文章は友人に頼み、

    具体的な症状の例といった医学的な記述は、医師に監修してもらった。

      主人公の女の子は、ある時、お医者さんに胸のうち  を明かす。「私ずっと悩ん

    でいたの」なんでお母さんはあんなにどなるのかな?どうしてご飯つくってくれないの?

          「お母さんは私のことが嫌いなんだなって思ってたの」

      絵本では、お医者さんの言葉を通して雨こんこんさんが伝えたい思いが語られる。 

    「それは病気のせい」「お母さんは、君のことは大切に思っているんだ。君はだいじな

     子どもなんだよ」 子供の手助けをしてくれるケ-スワ-カ-7学校の先生などの

     応援団も紹介。」「大丈夫、あなたはひとりじゃない!」 と結んでいる。

       子供たちを励ますつもりで初めて絵本づくりに挑んだ雨こんこんさんは、自分

     にもたくさんの応援団がいると気づいた。出版前に絵本を読んでもらった子供や

     その母親たちの励ましの手紙。参考意見をくれた精神科医との交流にも心が

     温まった。自分の病気を伝えていなかった友人に絵本を送ると「ずっと友達で

     いようね」というメ-ルが届いたという。

     「雨こんこん」さんは、「絵本を通して子供のつらさが和らげば。一人で悩まず

      助けてと声を上げ、応援団に繋がって欲しい」と話す。

     ◎上記の「大丈夫あなたは一人じゃない」もうすぐ5月になります。

      学校、職場など新しい環境の中で悩む人々が出そうな時節。

      とても悲痛な、悔しい思いがして未だにしこっている自殺者のことが

      ふと想起されます。色々な苦難のなかにある子供から大人に至るまで、支援する

      人々の連携の大切をこの記事で痛感しました。

      ある高校では、私がそこで在勤中、3年連続して自殺者がでました。

      すでにブログで書きましたように、その一人は、私が倫社を」教えていた時の

      登校拒否ぎみで、作文で対人不信を訴えているのを知って声をかけましたが、

      拒否され、その少し後に他界しました。

        同様に欠席が多いのですが、そのたびに級友からよく声をかけられたせいか

      無事卒業した生徒もいます。

 

2017年4月7〜9日 就労とゴ−ルについて  精神科医 胡桃澤伸先生執筆

  4月7〜9日  就労とゴ−ルについて  胡桃澤伸先生執筆

        2017年9号    統合失調のひろばより 日本評論社より

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        これも個性味を欠いた鈍くささが出ている感じです

   今回の上記のテ−マは、私も関心があります。日進市の障害者自立支援協議会の委員の

   一人として筆者と同様、私も安易に自立支援の目標を「就労」とは考えていません。

   以下に筆者の経験からにじみ出ている「就労」についての見解が出ています。

   「精神科医になって20年を超えたが担当した統合失調症の患者の就労に力を入れて取り

    組んだ記憶がない。受け持ちの患者の殆どが長期入院のその病気だったかも知れない

    長期入院の患者が退院した後はほぼ全員が生活保護を受給したので就労の手伝いは

    しなかった。−−−バブルはすでにはじけていたのだが、生活保護受給者への非難、

    バッシングはあっても現在ほど強くなかったと思う。−−−誰もが障害者病者になり

    得る。働けなくなることもあり得る。人間は生まれながら皆が人間らしく生きる

    権利を持っているのだから、働いているか、否かを気にしなくてもいい。あえて口に

    しなくてもそういう思いをもって働いていた。

    しかし、筆者自身迷いがあったこともあり、忘れられない経験があったとのこと。

    それは、そううつ病の患者から、もう働けないので障害者年金の診断書を書いて欲しい

    と頼まれたとのことです。医師になって3年目の外来診療だった頃のこと。  

    筆者より年長の職業経験豊かな人から「もう働けないから」と打明けられたことに、

    まず戸惑ったそうで、診断書には就労できるか否かを書かなくてはならない、

    一体何を基準にしたらよいか、今の状態でもやれる仕事は探せばあるのではないか

    −−−−私が「就労不能」と判定したら、この人は、二度と働かなくなってしまう

    のではないか。役所からこの人はまだ働けるじゃないでしょうかと問い合わせが

    来たらどう説明したらいいのだろう。怠けているだけじゃないという声をどう納得

    させるのか。『就労不能」の文字が重く胸にのしかかった。

    本人は、診察でも私の再三の忠告にも耳を貸さず自分勝手にに振る舞っては窮地に

    追い込まれ言い訳を繰り返しいる人だったので好感はもっていなかった。−−−

    何でこんな無理難題を押し付けられなければならないのかと腹も立った。どうしたら

    いいのか分からずケ−スワ−カ−相談した。ベテランのその人は、「診断書にそう

    書かなかったなら(労務不能のこと)この人、年金もらえませんよ」とあっさり

    言いきった。その言いきりがはっと気づかせてくれた。この人が働き続けたら症状は

    悪化し、生活の質が下がるのは間違いない。理屈は言わず、ここは書かなくては

    ならないのだ。絶対の保証はない。医師は、自分の見立てをもとに判断し、書面に

    記す。絶対の保証を求めていたら責任ははたせない。その基本を教えられた。

    私は、労務不能と判定し、診断書を作成した。」これだけのことで筆者は1週間悩んだ。

    しかし、貴重なことに気づかれたのです。これ以来福祉手帳、年金、生活保護の申請で

    診断書を作成され、詐病とみなされうる所見のあった場合の他、頼まれたら書くことに

    しているとのこと。そして筆者から患者に伝えた方が良いと思われる場合には以下の

    ように伝えるとしていると。

    「これは、あなたの権利です。お金をもらうこと、サ−ビスを受けることを後ろめたく

     思わなくてもいい。病気を治すこと、自分のケアをすることが仕事ですから

     働いていないことを後ろめたく思う必要はありません。治療が仕事です。

     辞めないで続けて下さい。それがあなたの責任です。」

     年金と聞くと「もらえるものなら貰っておこう」とする気持ちにかられるのが

     普通ですが、胡桃澤先生のようなお話を直に聞いた人々は、ただうなづくだけで

     なく、年金受給者としての喜びと共に、治療の責任の意味を心に刻みこんで

     治療に専念する道が開かれ、就労へのステップへの励みになると痛感しました。

     精神科医らしい愛情のこもったエンパワメントです。

     このようなことを障害者の方々が聞かれて、皆さんうなづかれたのは当然ですが

      他方、就労をゴ−ルと考えている人々からすると、「一体どこがと思われるかも

     知れないが、これが私なりの就労支援である。就労不能でもやれることことはあり

     それは就労と同様価値があり、あなたはすでに取り組んでいる。今日こうして

     病院に来ていることが証拠です。これは治療という営みであり、一人でも続け

     られるし、医療者がお手伝いすることもできる。そう、当人に気づいて欲しい」と

     筆者の熱い願望を述べています。

 

 4月11〜12日  続 就労とゴ−ルについて   胡桃澤伸先生執筆

   4月11〜12日  続就労とゴ−ルについて  胡桃澤伸先生執筆

 

   後半の記事では、筆者が統合失調症のAと、どのような配慮をしてAと対話し

   通常のロジャース流カウンセリングと異なる方法で彼との良好な関係を築いて

   貴重な学びの体験をできたのかが焦点になります。

   前半では、年金申請を障害者方々に対して「後ろめたい気持ちにならなくていいのです」

   しっかりと治療するのが仕事なのです」と思いやりをこめたメッセ−ジではげまして

   います。後半の記事でも、内因性遺伝的要因に起因すると言われる統合失調症の

   患者との関わりの中で、筆者の言葉そのものでなく、その言葉を通しての幻聴と対話して

   いることの気づきがポイントになっています。

     このAについて筆者は、いかのように述べています。

   院外散歩に出かけては、百円均一の店に立ち寄り、私にキャラメルを買って帰ってくる

   Aさんがいた。幻聴と会話し、考えたことが中空に文字になって現れるAさんは、自分の

   もとに大金が集まっていると信じ、配金表を作り続けている。精神科医であれば、どの医師

   でもAさんを統合失調症と診断するだろう。当時私は、長期入院している統合失調症患者に

   外出、外泊、面会の機会をつくること、レクリエーションへの参加を促すこと、中庭への

   散歩に誘うこと等を行っていた。人との交流の場に出そうとという意味で、「就労」支援的

   な取組と言っていいかも知れない。そしてAさんは私のこの「就労」支援的な働きかけを

   ことごとく拒否した。受け入れてくれるのは薬のみ。それも変更はめったに許さない。

   採血すらさせてもえない。Aが黙って私に許すのは、そばでいることだけ。私がAさんに

   行える働きかけはごく限られていた。これをあえて「労働」と呼んで、論を進めてみたい。

     Aさんは私の労働を消費するだけでなかったのか。何も生み出さず、私に代価を

   支払わなかったのか。そんなことはない。Aさんから多くのことを教えられた。

   私の労働と等価、或はそれ以上のものをAさんは私に与えてくれた。

         幻覚、妄想とは何か、統合失調症とは何か。幻覚、妄想と共にあるとはどういうこと

   なのか。精神医療を受け、精神病院で暮らすということがどういうことなのか。

   統合失調症を生きるとはどういうことなのか。私は、Aさんの態度、言葉に何度も

   唖然とさせられた。真の学びがあったあったと言ってよい。

    ある日ディル−ムで対面して座っていると、Aさんが口を突然めい一杯大きく開け

   歯が殆ど抜け落ちている歯茎を見せ、言った。「私歯がない、、電気ショック受けたから。

   抜けた、怖かった」 私は驚きで胸がつぶれ、「それは怖かったね」と言えなかった

   (ここで共感したらさらに相手の気持ちを助長することになるからです)

   Aさんは、実際に「怖かった」「怖かった」と繰り返していましたから。

     筆者は一言も発していないのに、Aさんはしきりにうなづいて話を先に先にと

   進めていくのでした。初めて会ってから数年間そういう診察を繰り返した後、どうやら

   Aさんが筆者の声で幻聴を聴いて、筆者の声の幻聴にうなづいているのに気づいた。

   Aさんが聴く、私の声の幻聴が私の面接中に起きていて、Aさんには現実の私の声と

   幻聴の私の声との区別がつかない。わたしの言葉は私の思うようにはAさんに

   届かない。Aさんの幻聴によってわたしの言葉でないものが私の言葉としてAさんに

                                       届く。

   私はどうやって面接したらいいのか途方に暮れた。−−−

        しかし、私自身、子供の頃に人形で遊ぶときには人形に話しかけ、人形になって 返事して

   いたのを思い出し(腹話術)事態を理解できたような気がした。 自分はAさんの遊び

   道具の人形になってみよう。Aさんは私に話しかけ、私の声の幻聴を自由に聴けばよい。

   Aさんが聴いている私の声の幻聴がAさんを脅かさず、安らぎを与える者であって欲しい

   と願い、そうなるには、どうしたらよいかを考えて立ち振る舞いと表情を工夫した。

   (つまり、筆者は、通常のカウンセリングでなく、Aさんの言っていることに対して

    共感もしないし、否定もしない立場で対処するための工夫を考えていたのです)

   力を抜いて、椅子にはゆったりと座り、手足も胴体も動かさない。やわかく微笑み

   できる限り黙っている。不用意にうなづかず、声は低く、ゆっくり話す。

   このような自分の感情を抑えた対処の仕方なのです。 

   Aさんが私にキャラメルを買ってくるようになったのは、このこの取り組みが

   もたらした変化だった。言葉の機能と限界。面接とは何か。そしてその意味と可能性を

   私はAさんから学んだ。精神科の診療にとって面接は命である。その命についての

   豊かな教えをAさんは「生産」していた。 

   (Aさんは、筆者の言葉の幻聴に反応して自分の気持ちや思いを開示していた)

   只の消費者ではない。その生産物を受け取るのはなかなかの重労働だが、わたしに

   とっては他からだった。−−Aさんの営みは世間一般て言われる『就労」からはほど

   遠い。しかし、大学でのとおりいっぺんの精神科の授業や研修より価値があった。

   このAさんの営みを含みこめないような『就労」を語って何の意味があるのだろう。

   Aさんのような統合失調症の患者がいることを念頭において、従来の『就労」の

   かたちと意味を変え、練り直して初めて、医療者は、「就労」を語ることができると

   私は思う

   ◎  私のこの筆者の考え方についての感想

   世間の金銭感覚で「就労」問題を考察するのでなく、一社会人として、たとえ成長が

   遅くても忍耐強く希望をもって忍耐強く対処する胡桃澤先生の生き様に感動しました。

   統合失調症の権威、中井久夫先生の語られた「医師ができる最大の処方は(願わくは

   空疎でなく)希望である」

 

 2月18日 心の痛みを未来の糧に 宇都宮大準教授 澤田匡人先生執筆 その1

  2月18日 心の痛みを未来の糧に 宇都宮大準教授 澤田匡人匡人先生執筆 その1

        児童心理 3月号より  特集 負けず嫌い

  筆者は、負けずぎ嫌いのテーマを念頭において、小中生のテスト成績に起因する生徒間の

  妬みの実態について検討し、良性の妬みと悪性の妬みに区分し、前者は、自分の成績が

  振るわなかった原因をふりかえり自助努力していく。それに対して後者の悪性のそれの場合は、

  自分を返りみることなく、相手を妬み、かげ口、いじめなど相手を苦しめる行動にでたりする。

  この記事では、そのような実態を、ただ述べているだけでなく、悪性の妬みの生徒を

  どのように自省に導いていくかについても言及していることに興味を抱きました。

  今回の記事を通読していて、こんなこと学校に限ったことでなく、似たようないじめ、

  パワハラ、嫌がらせが職場にもあり、実際にかってのクラスメイトからも聞いたことが

  有ります。以下筆者は、上記のテ−マにつて次のように述べています。

  1 負けず嫌いをこじらせて

  「小学校の時に、やけにつっかかってくる女の子が一人いました。私が他の子と仲よく

  したりテストで良い点を取ったりして、その子よりよい状態にあると、体操着を屋外に

  捨てられたリ、ランドセルに傷つけられたリしました。−−−いじめの特徴に当てはまる

  行為を受けていたなあと思いだしました。」

   これは、筆者の授業で「いじめ」を解説した回で受講生が書いたコメントを一部改変した

   ものとのこと。その学生に委細を尋ねたところ、当時は相手に言い返したり、教師に助けを

   求めたりして大事には至らなかったという。

         この事例について筆者は、何故こうした陰湿な嫌がらせを受けなければならないのかと

   述べ、私たちは、自分より良い状態にある他者を目のあたりにした時、多かれ少なかれ

   彼らから刺激を受ける。そして刺激の矛先がどこに向けられるかによって、その結果が

   異なってくる。相手に負けた自分自身に向けられるならば、場合によっては、自己を磨く

   きっかけになるかもしれない。しかし、矛先が優れた相手に向けられ、しかも同じ土俵の

   勝負からおりる道もある。いくつかの枝分かれするその道さきに、すでに敗北している

   にもかかわらず、執拗に相手の足を引っ張る姿がある。このように「負けず嫌い」を

   こじらせてしまうと、すくなくても相手に迷惑極まりない結果に招かれる。また、

   こうした帰結を案じてか「人と比べるのは良くない」とたしめられることさえある。

    2 負けた苦痛の癒し方

   しかし、どうあってもね周囲と比べてしまうのが子どもというものだ。比較するには

   それなりの理由がある。児童期から思春期にかけて、自分という存在を知り、それを

   再構成していく渦中にあっては、他者から自分を相対化しておくのは極めて

   重要な作業と言える。「社会的比較」と呼ばれるこの過程では、自分と心理的に近い

   対象者が選ばれ易い。 この社会的比較には、二つの方向がある。

   一つは、「上方比較」で自分より優れた人に向けられる比較によって、自己評価が

   下がって相手との違いが際立つとネガティブな感情が、相手に感化されて、相手に

   同化しようと思えるポジティブな感情が生まれる。

    他方で、自分より劣った者と比べるのは「下方比較」という。自分よりも相対的に不幸な

   人を見れば、私たちはたちまち元気を取り戻すことができる。もちろん、同情や哀れみの

   眼差しを向ける場合もあるわけで、、下方比較が常に喜びを生むわけでない。

   下方比較から満足感を得られる条件とは、自分が窮状に喘いでいる時や、自尊感情が

   低くなっている場合だ。また、下方比較には、誰かの悪い噂話に花を咲かせるような場合と

   他者をおとしめようと行動して、故意に傷つけるような場合がある。筆者が初めに

   紹介した小学生は、まさにこれに当てはまるとのこと。下方機会をつくるために

   わざわざ捨てたり、傷つけたりする子供。(その子の自己防衛としてしたと感じます)

   一体何のために?それは、自尊心の低下。もっと言えば、プライドを傷つけられたことで

   生じる「妬み」を和らげるためだったとは考えられないだろうか。(その通りと感じます)

 2月19日   心の痛みを未来の糧に その2

     2月19日  心の痛みを未来の糧に その2

 

     3 妬まずにはいられない

    優れた他者と比べる妬み、それは苦痛と敵意に満ちた感情だ。誰かを妬むあまりに

    人を傷つけるのは、子供に限ったことでない。例えば、職場で高い業績を上げた

    人は、周囲から妬まれるだけでなく、嫌がらせも受けるリスクも高まるという

    報告もあるとのこと。私も仕事で、西三のある社会保険事務所へ行った時、中学の

    女性の同級生に会った際、そのことを聞きました。業務課長に昇格した際それを

    妬んだ男性からいじめを受けたといっていました。本人は努力してその地位を得たのに

    どんぐりの背比べの同僚、特に男性からだと余計そのような目に遭います。

    人が妬みを抱くその一因として「自尊感情」とのこと。自尊感情の高い人は妬みを

    感じにくく、逆に低い者は感じやすいとのことです。

    こうした自尊感情と妬みの関係を首尾よく説明してくれる理論に、自己評価維持モデルが

    あるとのこと。このモデルでは、相手のパフォーマンス、パフォーマンスの関与度

    つまり自分にとっての重要度、そして他者と自分との類似性が考慮される。そして、他者の

    優れたパフォーマンスが自分にとって重要で、他者が心理的に近いと感じられた場合

           妬みが経験され易くなるとの指摘です。上記の女性の場合は、これに類すると思います。

               ところが、こうした妬みの感じ方について、奨学生のそれは少々事情が異なる

    らしいとのこと。成績、運動、人気といった領域に対する重要度が妬みを引き起こすか

    を検討した調査では、成人と同じく、中学生は、こうした領域のの重要度に応じて

    変化していた。しかし、小学生は、特定の領域をを重視しているからといっても、それに

    連動して妬むわけではないとわかったという。

    他との類似性が妬みに及ぼす影響についても同様だった。これまでも成績が良かった

    友人がテストで自分よりも高い点数をとった場合よりも、同じくらいの成績だった友人

    に抜かれてしまった方が中学生は妬み易くなる。但し、小学生には認められなかった

    とのことです。このように、自己評価維持モデルによる予測に違わない結果が得られた

    中学生と異なり、必ずしも関与度や類似性の影響を受けずに妬むのが小学生の特徴のよう

    とのことです。おそらく、自分にとって何が大事で、何が大事でないのかの峻別十分に

    ついていない点に起因したものと考えられるとの指摘です。

    しかしながら、筆者は、自分にとって重要であろうと、なかろうと、小学生は、優れた

    他者を妬むリスクが高いとも解釈できるとのこと。

    (従って感情に任せていじめ、嫌がらせへ進む訳です)

    こうした意味で集団の中で育つ子供を全く妬まないように仕向けることは、ほぼ不可能

    と言ってよいとのことです。

 

 2月23〜24 日 心の痛みを未来の糧に その3

   2月23〜24日   心の痛みを未来の糧に その3

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                      赤のアルストロメリアを活かした構図にしましたが゛鈍臭さを感じます

 

           4 妬みの二面性

    ここでは、筆者は、良性の妬みと悪性の妬みについて言及し、次の単元では

    着眼点をどう切り変えていくかに解決策の糸口に進みます。

    筆者がいうには、妬みには「良性」と「悪性」があるとする見方が主流となっており、

             これは、妬みのサブタイプ論と呼ばれるとのこと。ネガティブな行動を引き起こすのが

             悪性妬みで、

    ポジティブな効果をもたらすのが良性妬みという見方です。実際、中学生を対象とした調査

    では、自尊感情が高い者は良性妬みを感じやすく、いじめを助長しにくくなるに対して、

    自尊感情が低い者は悪性妬みを感じやすく、いじめを助長しやすいという。この結果から

                  こうした妬みの二面性について、次のような例示で筆者は説明します。

    テストの結果、自分より良い点数の友人がいた場合のこと。その友人がどうやら不正

    行為をしたとうことを耳にした場合、相手の高得点に納得できないと感じる。

    こうした思いから生じる妬みが悪性妬みとのこと。私たちが想像する妬みがこれで、

    優れた他者に対する一方的な敵意に満ちている。その悪性妬みは陰で悪口を言ったり

    無視したりしてね相手を苦しめる行動に繋がり易くなる。 

    一方で、テスト前に熱心に勉強している友人の姿をみたらどうでしょう。

    相手が成績を伸ばしたのは「当然の結果」として思い、「羨ましい」とは感じても、

    憎しみは殆ど感じられないはず。これが良性妬みとのことです。 小中学生に

    「羨ましいと思った時にどうするか」を尋ねたら、殆どの小学生は「頑張る」とこたえた

     のに対し、中学生では、「諦める」とか「何もしない」という子の割合が増えていく

     とのこと。「実際どう頑張っていけいいのか分からなくても、一応そういっておこう」と

     回答する小学生とことなり、中学生ともなれば、自分が頑張ったらなんとかなりそうな

     線と、諦めてしまった方がよい線の境界が分かってくる。だからこそ、羨ましいと

     思っても「頑張らない」と答えられたかも知れないとのことです。

     追いつけそうな線が見えてくれば、悪性妬みのように、苦痛を誤魔化そうと相手の足を

     引っ張らなくても済む。 しかも、良性妬みには、パフォーマンスの継続や成績の向上

     をもたらす効果があるらしいとのこと。その例として次のような手続きで良性妬みの

     効果を検証した実験があります。

     まず、大学生たちに、ある学生が賞をとった記事を読ませ、そこで湧き上がってきた

     感情を記述させる。ついで言語連想課題に取り組ませると羨ましさ(良性妬み)を抱いた

     グル−プの成績が一番良かっただけでなく、課題を途中で投げ出さなかった。

     また、テストを受ける一週間前に、テストの目標と妬み易さについて回答を求めた

     調査では、良性妬みを抱き易い人は、テスト目標点を高く設定する傾向にあり、

     実際に成績も良好になっていた。

     一つ一つの自己効力感の達成が更なるそれへの達成に繋がるということです。

     しかし、上記のような努力が報いられて自信を持っている人はいいのですが、

     悪性妬みの人がどのように自己の課題と向き合ったらよいのか、かってカウンセリング

     養成講座で講師は、「人と過去は変わらない。変わるのは自分だ゛」と言っていました。

     結婚に失敗して、相手のせいにする、就職しても、上司のこと、同僚のことに不満を

     抱いて辞めてしまう。でもあなた自身はどうなのか、今回の中心テ−マもそこにつき

     当たります。5の「諦めの線引き」6の「痛みの先にあるもの」も自分の在り方に

     解決の糸口があるのです。      

      

 2月24日 心の痛みを未来の糧に その4

     2月24日 心の痛みを未来の糧に その4

 

           5 諦めの線引き   

          どんなときでも諦めてはならないというのも、いささか無理なことであり、自分を追い

    つめるだけにしかならないと筆者はいう。「頑張る」と口を揃えて答えていた子供達も

    色んな経験を経て、超えられない壁にぶつかり、立ち止まりせざるを得ない局面が増える。

    不断の努力もよいが、ときには諦めて、別の方向に目をむけた方がよい場合もあると

    筆者は述べます。このように、諦めとうまく付き合うことは、人生の選択や適応に不可欠

    と考える向きもあるとのこと。なりたい自分となれない自分の折り合いをつけていく中で

    納得しながら諦められるからこそ新しい未来が開ける。このような観点からすでに述べた

    妬みの二面性を振り返ると、悪性妬みを感じてしまうのは、相手の幸せに納得できない

    からとのこと。相手の優越性を受け入れられなければ、自分の劣等性も受け入れ難い。

    そうなると、悪性の妬みには諦めきれない思いがにじむ。その結果、相手に嫌がらせを

    するなど、負けず嫌いをこじらせた行動に走るとのこと。負けている自分を認めないまま

    だと少なくとも自分を高めるという選択肢は見えてこない。(傲慢さ故に)

      一方の良性妬みを感じる場合ではこの場合では、相手の幸せをまずは認めて、

    それなりに納得した上での諦めが前提になるとのこと。優れた相手を素直に認められるから

    こそ、羨ましいと思えるとのことです。そうした諦め混じりの羨みを経てはじめて今度は

    劣った自分を諦めないでいられる道が見えてくるとのこと。−−−

    このように考えると,すぐれた他者から大いに刺激を受けているけれども、その行きつく

    先に見据えているのは、他者でなく、自分であるように思えてくる。

   (劣等感のとりこになって我を見失うことなく、腹を据えて自省するゆとりの必要性のことを

    筆者は説いていると感じます)続いて筆者は次のように例示して説明します。

    良性妬みによる成績の向上は、一見すると他者との勝負に見える。しかし、結局のところ

    目標に向けてやり続けられる糧があるかどうかにかかっている。おそらく良性妬みの帰結

    とは、他者に勝つというよりは、過去の自分に打ち勝っことに他ならない。あくまでも

    そのきっかけが優れた他者だったことに他ならない。こうした視点から考えてみると

    他者に負けている現在の自分を引き受けられるかどうか、そして未来の自分でそれを超え

    ようと試みるか。負けず嫌いの子供がどう転ぶのかは、そうした判断の有無にかかっている。

    (教師としての過去の自分が目先のことに気をとられていて、大事な視点を見失っていた

     ことを痛感致しました) 

       6 痛みの先にあるもの

    筆者は「諦めから始まる負けず嫌いは、目標の設定とその達成につながる可能性があり、

    結果として諦めない道を選びとれる。しかし、諦めきれない負けず嫌いは、人を傷つける

    ような非生産的な行動を引き起こしかねない。勿論妬みという感情面だけで負けず嫌いを

    もれなく説明するのは難しい。しかし、こうした妬みの二面性を考慮しておけば、負けず゛

    嫌いの子供が何に悩み、どう振る舞うかを理解する一助になるのは間違いない。

    但し、良性妬みが役立つとは分かっていても、どうしたらいいか分からなかったり、悪性の

    妬みを感じたりする場合も少なくないはずだ。」と述べ、そんな時には、次のような

    ステップを踏んで、負けず嫌いの有様を描き出すのも一手かも知れないととのことです。

    ステップ1 何が辛いのか、誰のどんな点について妬んでいるのかを振り返ってみる。

    ステップ2 妬んでいる相手を全否定せず、その人の良い面と悪い面を整理しながら、自分

          で諦めてもよい線と諦めたくない線の区切りをはっきりさせる。

    相手のある部分が気にくわないと本人の人格全てを否定してしまう認知の修正する試みです。

    筆者の見解は次のとおりです。

    こうして、行き場のないもやもやした気持ちの正体を自分なりにつかめたならば、少なくても

    不用意に他の子供を否定したり、傷つけたりせずにすむはずだ。それに、妬みやすい子供は、

    自分をよく理解する可能性も秘めているとも考えられる。確かに、妬みは苦痛に満ちており

    できれば経験したくない。しかし、妬みという感情は、自分に何が足りなくて、これから

    何を目指せばよいのか教えてもくれる。だからこそ、負けず嫌いな子供のやりきれない

    思いを頭ごなしに否定せずに、受け止めて考えさせるきっかけをつくってやろうではないか。

    上記の「妬みやすい子供は自分をよく理解する可能性を秘めている」これがあるからこそ

    機会を捉えて「自己」についての気づきを引き出すことも出来ると感じました。

    今回の澤田匡人先生の記事は児童教育の現場に限らず、職場のメンタルヘルスの現場の

    研修にも役立つと思いました。

 

 

2月15日 日進市 障害者自立支援協議会への提言

   2月15日 日進市 障害者自立支援協議会への提言

         障害者への合理的配慮を尊重した企画の要望

          日進市では、昨年、この障害者の自立支援と合理的配慮に関する椙山大の先生によって

   障害者の親や障害者を雇用する事業主等を招いた啓発セミナ−が開と催され、それなりの

   成果が得られました。しかし、「障害者の自立支援」といっても、肝心の障害者自身が

   このセミナ−に招かれていなかったことは、問題と痛感していました。自立支援協議会の

   メンバ−の中にも、また、障害者の支援事業に関わる方々の中にも同様のことを感じて

   いたとの声も直接伺いました。 

   日本も2014年に国連で採択された、障害者への差別解消を目指す「障害者権利条約」に

   批准しました。この条約に関しては、合理的配慮を実行する過程でも、「合理的配慮」を

   必要とする本人の意見表明の重要性が述べられています。

   ” nothing about us without us”

   (私たちを抜きに、私たちのことをきめないで)このような意見が出ていたのです。

     では、この「合理的配慮」の語源は、どこから来たのでしょうか?

   国連の障害者差別解消に関してこの言葉が出てきたのではなく、誤訳でこの言葉が

   国内で 普及したみたいですが、reasonable accomodationが

   本来の語源です。accomodationとは、「気持ちよく、くつろげる宿泊施設」

   なのです。 ネットには、「調整」「便宜」の意味と出ています。

   「調整」とは、企業、役所等の目線で指示するのみでなく、少々時間、手間がかかっても

   障害者の反応を見ながら彼らの心に響く方法をとること、

   「便宜」とは「相互に心地よい環境づくり」(居場所として彼らが受け止める)

   以上のように私は思います。ですからnothing about us without

   usの言葉の重要性を理解し合うことが不可欠なのです。

   このように企業等で、指示命令のようなやり方でなく、彼らの心に寄り添って、緊張の

   ストレスから開放されて気持ちがなごむの中でこそ「気づき」を得て、自ら徐々に工夫

   しながら自立へのみちが開かれ、社畜でなく、人格をもった人として労働する喜びの

   可能性も出てくると思います。合理的配慮の究極はここにあると確信します。

     集会を開いて彼らの意見聴取の方法としては、いきなり参加を呼び掛けるのでなく

   彼らの通う就労支援事業所などに第三者が事前にそこの責任者の了解を得て

   彼らのそのようなA型、B型の事業所などに出かけて、日頃の家庭や家庭外の活動先の

   仕事ゃ対人関係の困りごと、悩み等についてのアンケート調査についてその趣旨を

   説明し協力を仰ぐことを今考えています。然る後に回収し、まとめ上げた資料を

   彼らとの話し合いのとき利用するのはどうかと考えています。

   それと共に障害者の中には皆さんの前で自分の見解を述べれる人も協力して頂くと

   会合のモチベーションのUPにもなり得るのではと期待感ももてます。

   さらには二次会も開ければと考えています。

 1月30〜31日 自傷 松本俊彦先生執筆

  1月30〜31日    自傷 松本俊彦先生執筆

           精神科治療学 2017・1月号 

           特集 「鑑別しにくい精神症状や行動行為をどう診分けるか」より

 

  すでに昨年3月にこの先生の「死にたいの理解と対応」についてブログを書きました。

  今回も自殺者のことを念頭に入れて紹介させて頂きます。 筆者は、冒頭で以下のようにこの

  「自傷」について忠告しています。自傷、すなわち、故意に自らを傷つける行為は、精神科臨床

  において極めて普遍的な行動障害といってよい。というのも、それは、様々な種類と程度で

  もって出現する可能性があるからである。またその意図は、自殺を意図するものから、

  むしろその反対に自殺念慮を緩和するものまで極めて幅ひろい。従って自殺意図によらない自傷

  を「自殺行為」と誤解して、非自発的入院や隔離、拘束などの「ハ−ドな対応」をすれば

  深刻な人権侵害はもとより、患者本人の心を傷つけ、余計に自傷せざるを得ない状況をつくり

  出す危険性か゛ある。

       一方、繰り返される自傷に辟易した援助者が、、自傷の背景にある自殺の意図や念慮を過小

  評価してしまえば、悲劇的な事態が引き起こされる可能性もあるとのことです。 

  私自身リストカットの常習の30才過ぎの女性とNPOで約1年余りカウンセリングをした

  ことがあり、その人は、長くパ−ソナリティ障害に苦しんでいました。自傷行為については

  通常、精神科医、臨床心理士に言わないようなことも、それを実行する過程、その直前の心理的

  苦痛のことも、特に私から依頼しなくても、丁寧に話してもらいました。 

  日々の空虚感から脱するために、友達と連れ添って繁華街で楽しんだ後に帰宅してぼっとして

  いると何か魔物みたいなものが海の深いところへ引きずり込んでいくような苦しさに襲われ

  いつものリストカットをすると、もとの自分にかえってすっきりする、そんなことを言って

  いました。でも、そのような解離状態のとき、意識が朦朧として、他の部位を切ってとりかえし

  のつかない結果になり得ますし、もう一つ睡眠剤のことも話してくれました。

 (この記事に関心を持たれている方もみえますのでTVで彼女が知ったことは伏せさせて

  頂きます)

  2 自傷と自殺の症候学的差異 米国のWalshとRosen の説を引用(筆者等翻訳)

   1 行為の意図 自殺において意図されているのは意識活動の終焉であるが、自傷において

     意図されているのは、感情的苦痛の緩和や解離状態からの回復といった意識状態の変化

     である。

   2 身体損傷の程度・致死性・致死性の予測

     自らを切ることで自殺した者は、成人の自殺既遂者の1・4%<若年者では0・4%と

     少なくしかも大半は頸部を切っており、上肢、下肢を切った者は殆どいない。

     身体損傷は、自殺のそれとは明らかに異なる。

     但し、注意しておくべきことは、客観的に見て致死性が低くとも、若年者や高年者の

     場合、又は人生で初めて自傷を試みた者の場合には、「それで死ねる」と信じ込んで

     いることもある。従って、行為の結果や致死性をどのように予測していたかを評価する

     必要があるとのこと。

   3 心理的苦痛 

     自殺者の抱える心理的苦痛は深刻で持続的な絶望である。一方、自傷者の抱える心理的

     苦痛は怒り、不安、緊張であり、これらの苦痛は間欠的に消長、出没する性質を

     もっている。

     上記の人の場合自己愛からくる見捨てられの不安、激しい怒り(物を相手にぶっつけ

     たり 器物を破壊するなど)

   4 状況のコントロール

     自殺を試みる者は絶望し、もはや自分には現実の困難な状況をコントロ−ルできないと

     感じている。一方、自傷を繰り返す者は、自傷によって気分や対人関係を変化させる

     ことで困難な状況に適応できると考えているとの指摘です。

     上記の1、3から自傷者は、その行為により一時的に苦痛から解放されることを本人

     からしばしば聞きました。本人もいつまても子供みたいなことをしていてはダメと

     気づいて一時期には、気の合う若い女性スタッフとストレッチをしたり、

     私が少し紹介したCBTにも関心を示しDTR(不適応と思われる思考に発する感情、

     行動の記録、描画も加えて)を見せてもらったこともありました。

        そしてあるとき、外出から帰宅して自室で休んでいると、いつもの空虚感に襲われて

      一瞬リストカットをしようと思ったけれど、認知行動療法のことを想起したらしく、

     夜の就寝頃にも関わらず、ピアノを弾き出して気分転換したとのこと。

     姉は「うるさい」と怒鳴ったけれど<自身の気分は悪くなかったようでした。

     状況判断がずれていて、姉を怒らせたけれど、CBTでいう選択的適応として

     評価できると感じ、私はリストカットから抜け出す第一歩として彼女を褒めました。

     こういう成功体験の積み重ねがBPDからの脱出への道につながると痛感しました。

    (このような事例は他のブログでも述べました)

 

            5  行為による心理的影響 

    自殺を企図した者は、それに失敗したとき、死ぬことができなかったことを自責し、

    気分が悪化している。一方、自傷行為には、行為後に不快な気分は軽減している。

    それ故にそれに依存して味をしめ、同じことを繰り返す人が多いのです。

    前者の自殺未遂事例では、かって私が心理相談員研修に参加したとき、あるベテランの

    保健師の体験談に感動しました。未遂の青年に付き添って父親も来ていた折、

    父親は怒っていたとのこと。

    しかし、その時彼の職場の保健師が一言 「もうあなたは一人で悩まなくてもいいのよ」

    言うと彼は泣き出し、それを見た父親の心もがらりと変わったと言っていました。

    この姉御はだの職場の同僚の一言が彼の心の琴線に響いたのです。

    まさに最近しばしば耳にする「RESILIENCE」効果、=失敗しても立ち直る

    回復力が発揮された感じでした。  

 

   

1月11〜12日 本日 皇居で行われた「講書始の儀」について

   1月11〜12日   皇居で行われた「講書始の儀」

         塩川徹也先生のパスカルのパンセについて

    昼のNHKのニュ−スを見ていたら、「講書始の儀」が放映され、両陛下はじめ皇族の

         方々も出席され、各分野の第一人者の先生方が専門分野の講義をされていました。

   私もかって倫社で青年期の問題と関連付けて授業で教えたことがあります。

   丁度直近のブログで小学の生徒が『夢や目標をもつこと」についての白井利明教授の

         記事を紹介しながら筆者の見解にそって私が経験し苦労したことを踏まえて述べました。

   そして、その2の締め括りのところで塩川先生がTVで放映されたパンセの

       『神なき人間の惨め目さ」を拝聴していてこれは今回の白井先生の記事と関連ありと

         直感しました。

   まず白井先生の記事によると、生徒は、進学先の将来の夢や目標の実現に向かって頑張っては

   いるが、がむしゃら(これは私の感じたことば)に勉強していても、その意味が分からず

   元気をなくし(思春期前にメンタル不調者も出ていると私が推測する)のが現状です。

   それに対して17世紀に哲学者しても活躍したパスカルは「人間は考える葦である」

         と説いたことで中高の教科書にも出てくる有名な科学者です。彼の著書は一般の

         大人対象に書かれて いますが

   これから大人になろうとする21世紀の人々が感動を覚える書です。

         塩川先生が述べられた箇所を以下に紹介します。

   パンセ   パスカル 前田陽一、由木康訳  中央公論社より抜粋 172より

   われわれは決して、現在の時に安住していない。われわれは、未来をそれがくるのが

         遅すぎるかのようにその流れを早めるかのように前から待ちわびている。あるいはまた

   過去をそれが早く行き過ぎるので、とどめようとして、呼び返えしている。

   これは実に無分別なことであって、われわれは自分のものでない前後の時の中を

   さまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。

   これは実にむなしいことであって、われわれは何ものでもない前後の時のことを考え

   存在するただ一つのことを考えないで逃がしているのである。

   というわけは、現在というものは、普通われわれを傷つけるからである。

   それがわれわれを悲しめせしめるので、われわれは、それを我々の目から隠すのである。

   そしてもしそれが楽しいものなら

   我々はそれをみて残念がる。我々は、現在を未来によって支えようと努め、我々が

   到達するかどうかについて何の証拠もない時のために、我々の力の及ばない物事を

   按配しようと思うのである。

    各々自分の考えを検討すればよい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とに

   よって占められているのを見出すであろう。我々は現在については殆ど考えない。

   そして、もし考えたとしても、それは、未来を処理するための光をそこから

   得ようとするためだけである。

   現在は決して我々の目的ではない。過去と現在は我々の手段であり、ただ未来だけが

   我々の目的である。このようにして我々は決して現在生きているのではなく、

   将来生きることを希望しているのである。そして我々は、幸福になる準備ばかり

   いつまでもしているので、現に幸福になることなど

   できなくなるのもしかたがないわけである。 以上です。

   このパンセの引用文についての私のコメントをさせて頂きだったます。

   パスカルの17世紀の身分制社会の時代でパスカルの家は上級市民に属する比較的

   恵まれた階級の人。にも関わらず、悲観的捉え方をしている感じがします。

   彼は生来身体にハンディがあり苦労していますが、 キリスト教という堅固な心の

   支えがあり、自身に対しても襟を正すことができ、

   周辺の人々も思いやりをもって、どう生きるべきか忠告していた天才的思想家でした。

   彼の名言「人間は考える葦である」はある研究家によると旧約聖書から引用したとのこと。

   キリストの到来を予言するイザヤ書の中に「痛んだ葦を折ることもなく、燈心を

   消すこともなく」

   これが「考える葦」のル−ツなのです。神が遣わす救世主は、心が苦痛のため折れそうな人、

   もう夢も希望なく、まさにロウソクの炎が消えかかって死を希求する人も支える、

   そのような意味です。毎日勉強に追いまくられ勉強に張りがないし、級友との関係も

   よくな、いし、クラブも行きたくない。そんな時こそ教師、親の一言が

   この聖書の言葉のように本人の心に響くことが大事です。

   「君、ふんどしが下がってるよ」こんなice breakの鈍くさいジョ-クも中学生に

   言っていた時もありました。当然ながら愛情のこもった信頼関係が大切です。

   その反面またくりかえしになりますが、自殺しそうな生徒には下手な話しかけは要注意な

   ことはすでにお話ししました。

 

 

1月7〜9日  夢や目標をもつということはどのように大切か その1

   1月7〜9日 夢や目標をもつということはどのように大切か その1

          大阪教育教育大学 白井利明教授執筆 児童心理 1月号より

        1 はじめに

   今月号の特集テ−マは「前向きな子」です。

   冒頭に筆者は、まずは、やる気を出すには目標の持ち方の大切さに言及しています。

   この目標をたてるに当たっては、未来や過去をとおして現在をみつめることを指摘しています。

   それに関して筆者の記事全体を通読してみて私が特に注目したのは、最後の方に出ていた

   「OECD生徒の学習到達度調査」(2012年)の結果です。

   この調査によると日本の子供は、成績は世界上位なのに、教科が好きか、勉強の自信はどうか

   そして将来に役立つかを聞くと、いずれも世界最下位に近いとのことです。

         ここで筆者が強調したいことは、児童生徒の主体的な学習態度の育成の欠如であり、それを

   容認し、このような態度の育成をなおざりにしてきた教師、その上の指導監督に当たる教育行政

   当局にも大いに責任があると思います。私自身も一教師として色々反省すべきことがありましたが。、

   受験産業に振り回されず、もっと生徒の主体的選択を育成する指導が必要であったことなど。

        2 夢をもつ子供

   子供は、すでに小さいころから、身近にみている花屋さんとか、お菓子屋さんなどからこんなことを

   大人に成ったらしてみたいと思うかも知れません。職業選択の原型は、すでに小さいころに

   現れているとのこと。小学の中学年位になると、単なる憧れから脱してより現実的な選択になる。

   自分の趣味や特技からくる適性が判断基準に入ってくるとの筆者の指摘。

   スポ−ツ選手になろうとか、書道を習っていて褒められて書道の先生になろうとか。

   この時期では、人から高く評価されるかどうかといった威信が重視されるとのこと。

   そして小学高学年くらいになると、自分の将来の目標と、それにたどりつくめの手段が分化し

   始めると筆者は述べています。その例として、小学校の先生になりたければ、高校、大学へいくと

   いった道が見えてくる。そういう子供もいますが、それは、本人の家庭や学校の環境等によって

   様々ですので、筆者の見解は、この段階の子供の発達課題としての一般論としては、うなづけ

   ますが、私は田舎育ちのこともあってもう少し巾をもってみたいと思います。

   3 見通しをもつ子供

   このテ−マについて、筆者は目標をもつようになった子供について次のように述べています。 

   子供は、どんなことでも、自分からすることなら、楽しくやる。そのこともやがて成長と共に

   未来に目標をもち、それをどのように実現するのかを考え始めるようになると、楽しくないことでも

   取り組んでいけるようになる。良い成績をとって親が喜べば、親を喜ばせるためによい成績を

   取ろうと努力する。たとえ勉強が嫌いでも。マザコンはまさに親の気持ちに反応します。

   このように、行為の結果に過ぎなかった成績の良し悪しが、今度は行為の目的になる。

   これを筆者は「心の中の現在と未来を転倒させる力」が芽生えてくると述べています。

   目的が明らかになれば、目的達成のためには、困難なことも見通しの中で克服する努力をする

   からです。そしてそのやる気は、アメリカの心理学者ヴィクタ−・ヴル−ムが説くように

   現在の行為が目標を実現するのに役に立つと思うと程、勉強に熱心になっていく。

   だから今の役立つと思えることは、モテイべ−ションを高めるのに重要となる。

   このようにして子供は親を喜ばせるための勉強も、小学の高学年になると、その勉強も、自分の

   将来にどのように役立つかを考え始めるようになるとのこと。

   こうしたことは、生活全体を主体的にさせる。自分から工夫したり、困難なことでも、我慢して

   取り組んだりしていけるようになる。(これらの3行の筆者の言葉から、私は子供なりの

   選択的適応の芽生えと感じました。この適応は画一的な偏差値教育では育つのが困難です)

   次のその2で今回の表題「夢や目標をもつことは−−」の冒頭で紹介しました

   OECD生徒の学習到達度の調査」結果の日本の子供の弱点の答えが筆者の「生活全体を

   主体的にさせる」の言葉に出ていると痛感しています。

      ここの「生活全体」とは、学習の場、自己の身だしなみや身の周りの整理、整頓、家庭や

   学校での対人関係などです。 子供が成長していくにつれて、親や教師がそれに伴い

   次第に子供の人格を尊重して、なるべく子供の責任能力に応じて、細かい命令をさけて

   本人の主体的判断に任せ、状況に応じてアドバイスして支援する場合はいいのですが゛、

   親も教師も命令口調でいつまでも子供扱いし、学習以外でも、、高校生になっても

   頭髪、服装などのことなども上から厳しく規制する管理教育する、こんなやり方では

   筆者のいうような主体的態度など育ちませんし、級友間の信頼関係もうまくいきません。

   上からのしめつけの鬱憤晴らしに、いじめなど発生し、自殺者も出ています。

   主体的態度という言葉の響きはいいのですが、逆にそれがうまく育っていないが故に

   OECD生徒の学習到達度の調査結果では、調査項目によっては、世界最低位に近い、と

   私は、そのあたりの究明がないのが至極残念な気がします。

XP1010051葉牡丹A.jpg

                         ゛

                 この「鈍くさい生け花」でもその時々にひらめいた構想にそって各花の大きさ

     高さ、位置、色彩や形状のバランスを工夫して完成を目指すクリエイティブな

     活動なのです。各花はそれぞれの特性をもち全体を構成している以上、どの部分が

     欠けても、全体に影響を与えます。必ずしも代用品で補充すればよいわけではありません。

     ましてや人間の組織、集団内で、痛んだ仲間がいるのに放置しているようでは

     偏差値を効率よく上げる知育では、一定の成果が発揮できも、社会に関わる人間としての

     成長という面では、問題が残っていると思います。

      OECD生徒の学習到達度の調査結果がそのことを示していると感じられます。

     その調査で非常に低い評価の「将来に役立つか」などは検討に値します。

     児童生徒のメンタルの問題、「いじめ自殺など」発生すると現場の責任者、教育委員会、

     文科省の大臣らはありきたりの「命の大切さ」を述べ、事後の徹底した対策、事後誠実な

     その対策の検討もないままで『お茶を濁す」無責任な体質では、上記のOECD生徒の

     学習到達度で指摘された課題はずっと残る懸念がします。

     毎日級友とともに何を目標にして学ぶのか、教師は、偏差値を上げること以外に何を将来に向かっ

     て何を教えたいのか?そこが重要ポイントと私は考えます。

 

 

 1月9〜10日 夢や目標をもつことはどのように大切か その2

  1月9〜10日  夢や目標をもつことはどのように大切か その2 白井利明教授執筆

 

     4  やる気を失う子供

  この単元の「やる気を失う」子供がどうして出てくるかは、通読していて関心のわく事項です。

  例えば初めて英語を習い始めたときなどは、中一の生徒の関心はかなり高いと思いますが

 、習う動機もなく 只教師に強制的に暗記ばかりさせられたのでは嫌気がさし、

  ストレスの対象になります。その点私の場合兄貴から色々と教えてもらったり、

  色んな参考書も見れて良い刺激になりました。西三の海岸に沿った 田舎の中学でしたが、

  先生方はとても熱心で、高校へ行ってもしっかりついていけるようにと考えて頂いて

  特に英語が好きで、自分でかなり勉強していました。ただしS先生は感情の起伏が激しく、

  宿題をさぼった時殴られましたが、自腹を切って生徒のペンフレンドを紹介して頂いたり、

  米国の女性を招いて米国建国の箇所を一緒に学び、生きた英語を学ぶことで興味の

  方向付けをして頂きました。

  大学4年の卒論で学校開放(米国のSCHOOL EXTENSION)を選択し

 、向こうの教育官報を調べ 苦労しながら公立学校を利用した成人教育の二ュ−ディ−ル

  政策頃までの歴史の要点をまとめ上げ提出しました。二人の指導教官にその努力に対して

  予想以上の評価を頂き、手前味噌ながら、こんな俺でも

  ここまでやれたという達成感にしたりました。 以上脱線してすみませんでした。 

  また筆者にもどります。

   大人は時間が過ぎるのが早く感じる。年齢と共に早く感じる。筆者の娘さんが

   中一になったときに

   一日が早くなったのはいつ頃かと聞くと、小学5年生の時からとのこと。

   学校の授業時間が増え、一日にしなければならないことがはっきりしてきたころだという。

   自分なりに目当てや見通しをもって生活し始めると

   時間が過ぎるのが早くなると筆者は推測する。自分なりの目当てや見通しをもつという

   主体的態度は必要であるとのこと

   コ−チグでいう「どうありたいか」(being)、「何をしたいか」(doing)

   のことを想起しました。このような大切なポイントを自覚して行動していけば

   毎日に張り合いが出るし、今日よりも明日、明日よりも明後日を良いものにしていく

   という人間の成長がある。自分の人生に責任をもつことになり、これもまた大人への

   第一歩と筆者は考えます

   ところが、これは、現代社会ではなぜか、私たちの時間を早めてしまう。時間はどんどん

   早くなって忙しい毎日が待っているだけになってしまうと指摘します。

   大人になると、もはや自分のしている行為そのものだけでは楽しめず、

   その見返りを求める。目標をもったり、見通しをもったりすると、現在の行為は、

   手段となってしまい結果を求めてしまう。

   筆者の見解では、目標をもったり、見通しをもったりすることは今だけを生きていた

   子供から、主体的に日々を生きていく大人に脱皮することなのであるが、

   同時に行為の結果を求め、その結果が出なければ

   やる気も失せてしまうようなものになってしまう危険性も出てくる。

   (思春期の生徒がまさにそのような危険にさらされていることを自殺等に私自身直面

    してその実感を想起しています。勉強する意味が分からなくなっている時教師が

   受験の圧力をかければ自殺や非行に走らざるを得なくなります。大人の場合かなりの

   ストレスを受けても、ある程度自分なりの逃げ道を工夫してある程度の対処も

   可能ですが、思春期の彼らにはなかなかそんな対処は困難です。

   私がまだ青二才の教師のとき、教えた生徒には、試験では、赤点すれすれの低空飛行で

   うまく逃げても、ある時仲間と授業をサボってマ−ジャンしているところを

   通報されて、謹慎処分をくらった舘ひろし君とはその直後少し話ししたときが

   ありました。屈託のない好青年で、時々授業で

   ダジャレを言ってクラスの皆を笑わせました。海賊倭寇のような風貌でみなに

   好かれる人柄は在学中にスタ−性を秘めていたと思います。でも彼のような生徒は

   異色中異色です。)

   続いて筆者は、すでに紹介しました「OECD生徒の学習到達度調査」にコメント

   しています。

   日本の子供は、この結果でみると、成績(学力)は世界上位なのに教科が好きか

   勉強の自信はどうか、将来に役立つかを聞くといずれも世界最下位に近いとのこと。

   筆者のコメントは以下のとおりです。 

  その理由(両方のギャップ)は、単純ではないが、一つには、今の子供が早くから、

  ここで述べた意味での大人の心性になってしまっているからではないかと考える。

  勉強に向かって「お−い」と叫んでも何も返事がない。つまり勉強すること自体に

  もはや意味を感じることができなくなっているからではないかと思うのである。

  私もこれに賛成します。でも教師側、その指導監督者やその上の教育行政の責任者にも

  責任はあると 私もふくめてそう痛感しています。それではどうしたらよいのだろうか。

  大人になる以上しかたがないことなのだろうか、との筆者からの問。

  この先生も教育界で指導的立場にあれば、何らかの上記の見解の

  他に あるはずですが、問題の核心に触れることを避けている感じがします。

  最後に筆者は「目標の立て方」と「希望のもちかた」について言及しています。

  この二つの事項の根底にある大事なことは「どんな価値観をもつか」ということでは

  ないかと私は考えます。政治の世界でも、教育の世界でも、特定の政治家の価値観が

  支配するようでは民主主義国家といっても、後進国か社会主義の成れの果ての歪んだ

  形だけの民主主義に似たようなそれでは、多数の国民は不幸になります。

  教育の場合でも教育政策は国民のコンセンサス(同意)がなくて権力で国民に

  押し付けるようでは大事な言論、思想の自由などは抑圧されます。多様な価値観が

  教育の世界でも尊重さそれてこそ各自の人権は保障されます。

    筆者は、希望とは自分の望むものが実現しなくても期待し続けることと述べいます。

  まさにしっかりと考え抜かれた価値観であればこそ期待し続けれると思います。

  この件に関しては筆者は、ベルギ−の 心理学者ウイリ−・レンズの二つの目標 の

  やる気を例示しています。一つは将来金持ちになる。そのためには、医学部に

  入り医者になる。

  そのために勉強する。 もう一人も医者になるため勉強するのは同じたが、

  こちらは、将来多くの人を助けたいために医者になる。そして勉強のやる気は後者の方

  が高かったとのこと。

  筆者は、後者の高い勉強意欲の原因として「人のために」という価値観に注目しています。

  このしっかりした価値観こそが困難に負けず期待し続けることが出来るのです。

  但し、言葉でなく、教育の現場では如何にして生徒に心の軸になる信念、価値観について

  指導するのか、そのつもりはあるのか、ここが問題と私ずっと以前から思い続けてきました。

  筆者の指摘する生徒らが今の自分のしている勉強に夢中になっていても、

  その意味が分からないでは、夢が実現する未来なんてあるのかと疑問を投げかけたくなります。

  このことに関しては、別のブログで述べます。

 

 

 2017・1・1〜2 前中日落合GMの一言で決した元中日久本投手

   2017・1・1〜2 前中日落合GMの一言で決心した元中日久本投手

          あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

桔梗P1010048 アルストロメリアとトルコ.jpg

                      まだ鈍くさいところがあります 中央上部の黒味の赤菊と下段のバラがポイント

 

    私は、中日ファン、 かつての中日スタジアムの時代、年に数回は観戦に出かけました。

 そのころ試合前の打撃練習をよく関心をもって見ていました。ですから今回今回中日に復帰した

 久本投手のことはすぐ想像できます。そうは言っても打撃投手なのです。この件は、ネット

   記事で知りました。昨年までカ−プにいましたが、昨年秋に戦力外通告されました。しかし、

   当時の中日落合GMの口かけ「お前だから電話しているんだぞ」の一声である程度

    ふんぎりがついたとのこと。

 広島カ−プの菊地選手から「球団に残って下さい」と熱心に止められたが、「落合さんの言葉に

 響くものがありましたので、ドラゴンズさんでまた選手の力になりたいと思いました」と。

 かっての中日の貴重な左腕が、打撃投手として契約したのです。落合さんの「お前だから」の

 言葉の重みがズシンと来たと想像します。『俺の投げる球を打てない者は一軍上がれないぞ」

 そんな気持ちにシフトして若い戦力の育成を育てる決意をしたと思います。

    かって貴重な左腕として活躍したプライドを捨てよく決心したと褒めてあげたい心境に

    なりました。落合さんは、谷繁とか、井端などに対しては、冷酷さを感じましたが、

    今回の記事で彼の人間味を若干感じました。打撃投手は単純に考えれば投球マシ−ンの

    代わりと感じますが、久本は、若手の教育の仕事をすると私は感じます。

    愛と情熱をもって次世代を育成するクリエイティブな大切な仕事。

 地味だけれど球団にとって彼は貴重な人材。落合さんは、それを見抜いていると思います。

 久本が築いてきた財産が生きるのです。下記の詩篇の言葉を実感するときがくると確信します。

 きびしい勝負の世界で再出発しようとする久本の記事からふと、前6世紀のイスラエルの民の

 バビロンの捕囚から解放された時のことを述べている詩篇を想起しました。

 「涙をもって種まく者は喜びの声をもって刈り取る」 今の厳しい日本の企業で働く人々も

  久本選手のようにつらいことがあるかと思います。折角慣れてきた仕事からの配転、

     退職勧奨など年が明けて試練に直面する方々

   その試練を乗り切って良い年にされることを切望いたします。

 

 

 12月21日 内在化された質問の問題点が解明されたとき

   12月21日 内在化された質問の問題点の解明がなされたとき

   12月5日の「良い質問をする技術 その4」で自閉症スペクトラムの青年が描いたひまわり畑の

   描画のなかで、肝心の「ひまわりの花」が描かれていないことについて、最近の小田井メンタル

   クリニックの臨床心理士との面談の際、その先生が「彼が隠している」との指摘を受け、

   何か闇を蔽っていた霧が晴れたような感じでした。

P1010045赤のアルストラロメリア.jpg

          アルストラロメリアと菊の組合わせ

    非情に丁寧に描いた茎と対照的に肝心の花を描いていない理由があると察知しました。

    でも「何故花を描かなかったの」では対話は切れてしまいます。 

    たとえ彼がいい気分になっていると傍で感じても、心の奥にこびりついているトラウマが

    妨げているようなそんな感じでした。カウンセラ−としては、何とか彼から答えを引き出そうと

    焦れば焦る程l両者の心理的距離は広がるばかり。

    こちらとしは、描画を描いていた時の心境を聴いて、共感して彼の心に寄り添う中で

    開示してもらえるチャンスを忍耐して待つしかないと思っています。

    また彼に会って話がしたくなりました。彼が開示して心の中が氷解するときこそお互いに成長する

    糸口となると信じています。 

 11月29日 「良い質問」をする技術 その1  コ−チA 粟津恭一郎先生執筆

   11月29日 「良い質問」をする技術 その1 コ−チA粟津恭一郎先生執筆(ダイヤモンド社)

 

   私にとって最初の自閉症スペクトラム児との出会いは、29歳の時、その頃名古屋市西区の

   上小田井の山田中学の教師していましたが、ふとした契機である知人の紹介で春日井の

   心身障害者施設のコロニ−を訪問しました。その中の自閉症スペクトラム児の描いた絵を

   職員の方に見せて頂き、「こんな落書きのような絵にも子供の成長を見ることができ、それが

   私たちの喜びなのです。」とのお話を伺いました。直線しか描かなかった子が丸みのある形を

   描くようになったことなど聞いて感動しました。これが私が初めて見た障害児の描画

   でしたが、このような描画を自閉症スペクトラムの青年に北区のあるNPOで描いて

   もらったのが3年前のこと。

   しかし、彼が対話の中で気分がよさそうでしたので、「ちょっとこの画用紙に描いて」

   と頼むと「日まわりのお花畑」を描いてくれましたが、葉、茎は丁寧に描いているのに、

   肝心の花はありません。自己の心の奥にあるものを隠していたようでした。

   あえて彼に「どうして」と問うこともせず、ずっと私のこころに温めていました。

   今回の粟津先生の著書に「質問の内在化」が出ています、そのことについて後で説明します。

   先週金曜日、最近ご指導して頂いている上小田井の小田井メンタルクリニックの

   臨床心理士の先生に説明して頂いて納得できました。

P1010044.JPG

        菊とアルストロメリア、メキシカンセ−ジの組み合わせです。

 

          <本書の序文>

    粟津先生のエグゼクティブコ−チの仕事とは、「質問する」こと。

    その質問が一口でいうと、私は「とてもクリエ−ティブ」に感じました。

    質問の相手は、主に大企業の経営者、その他、グル−プリ−ダ−、部長などの幹部社員等。

    一対一で質問し続け、ほぼ毎日何時間も経営者等に対して質問し続けるとのことです。

    セッション以外の時間には、次のセッションに向けての「クライアントの目標達成の

    ために、さらにどんな質問が効果的だろうか?」「どんな質問が経営者をより成功に

    導くだろうか?」かと

    46時中考えるとのこと。(こんなことからも、とてもcreativeな

    仕事と感じます)

    超多忙なエグゼクティブに定期的に時間をとってもらい、ひたすら質問し続けて

    報酬を頂く−−

    どうしてこのような職業、関係性が成り立つのか。その理由は一つ。

   「よい質問には、自分と周囲の人々の人生を、より良い方向へ変える大きな力がある」

    とのこと。

    この一語に筆者の強いプロとしての信念が伝わってきます。

 

11月30〜12月1日  良い質問をする技術 その2

    11月30〜12月1日     「良い質問」をする技術」 その2

 

       <良い質問とは何か>

  巷の書店や新聞広告などにこのような類の書籍がしばしば目に止まりますが、それらは

  得てして、相手を自分の考えに従わせ、自分の思うがままに操縦していこうとする意図が

  出ていますが、筆者は、コ−チングの専門家として、相手の気づき、それに基づく発想の転換

  新たな行動を促すのが目的です。

   ところでその良い質問は、殆どの人は、誰かに教わったのではなく、自己の経験の中から

  自然に習得したものと言えます。それ故に筆者は「質問について学び、研究することを勧めて

  います」とのこと。その1で筆者が指摘しているように、質問のスキルを高めることは、

  コミュニケーション力を向上させるだけでなく、自分と周りの人の人生をより良くする

  ことに直結するからとのことです。

 (良い質問に焦点が当たっていますが、相手によっては、アクティブ

  リスニングのような傾聴力も人により、状況によって必要度が増すと私は浅い経験ながら

  そのようなことを考えています。)

 

          <良い質問は人生を変える>

  筆者自身もコ−チAの代表取締役の伊藤守先生から、その会社に転職して間もない時に

  質問されて大きなインパクトがあったとのこと。

  その質問は、「この会社でどんなことをしたいの?」 「エグゼクティブコ−チに

  なりたいです」

  「じゃあそのコ−チになった後はなにをやりたいの?」 「まだ考えていませんが」

  「いつそのコ−チになる?」 「そうですね、3年後位にはなりたいと思っていますが」

   恥ずかしながら、伊藤先生から質問されて初めて、「自分はこのコ−チの仕事の具体的

   イメ−ジをもっていなかった」と気づいたそうです。それまでは、入社したのだから

   そのうち自然にエグゼクティブコ−チになれるだろうと思っていたとのこと。

   この質問を受けた日を境に、筆者はエグゼクティブコ−チという仕事について真剣に

   考えるようになったそうです。

          入社して筆者が喜んでいる間隙を突いて、本人の心の空白の満たし、次のステップへ

    の気づきを促すところが伊藤先生の絶妙のコ−チングと感服しました。 

   (以前お世話になったSCCの加藤すみえ先生と雑談していた折、空白を埋めることで

    工夫が必要な生け花の話をしていたら、経営者の心の空白を埋めるよう促して頂いた

    ことを想起しました。)

             <良い質問で得られる「ひらめき」と自発的行動>

    質問による気づきは、それを与えられた人に、大きな感動の喜びを呼び起こします。

    脳科学者の茂木健一郎氏がその著書の中で、「アハ・エクスぺリエンス」『アハ体験」

    と名付けている感覚があるとのこと。大きな感動をでは覚えた時、

    英語では「アハ体験と名付けられているとのことです。『アハ体験」とは、

    算数の時間でピタゴラスの定理」を小学生が驚きを伴う感動のことを

    言うとのことです。実際に各辺の長さの正方形を画用紙に描いて、3つの正方形で

    調べると「本当だ」と驚きます。

    大人になってからも、ひとりで何か物事を考え続けて「そういうことか!」

    とひらめいたり腑に落ちたりする経験は、筆者の指摘のとおりとても心地よいものです。

    考えた末での気づきによって「明日からこれをやってみよう」という前向きな気持ちや

    わくわくする感覚、さらには自信をもうることができます。

    ギリシャ語のschole(スコレ)は暇とか、余裕を意味し、ここから

    schoolという言葉が生まれました。自然の観察、思索から学問が発達した

    ように、筆者の説くコ−チングも自由な思索から大きな成果を生み出します。

    「良い質問」をされて、自分で新しい気づきをえたときも上記のような感覚、自信をもつ

    心境になります。でも質問はあくまでもきっかけに過ぎません。気づきを生み出したのは

    自分自身。

    自分で考えたことだからこそ、その気づきには、深い納得と理解があります

    自分で思いついたことだからそ、その気づきに基づく行動は、自分にとって

   「心からやりたいこと」になるのです、との筆者の指摘です。

   ところがそれと全く同じ「気づき」でも、他人から教えられた場合、感動なし。確かに良い

    アイディアと感じるかも知れないが、それは他人の発想で、「自分で得た気づき」でない

    からとのこと。

    だからそのアイディアを実行しても、何となく「やらされ感」がつきまとい、真剣に

    取り組む気になれないわけです。社内研修の場合、日頃の社員の気持ち、考え方を

    汲んでする場合と上から強制されて受ける場合とでは、意欲の差は歴然とします。

 

      <質問は人の評価を大きく左右する>   

 

    筆者がエグゼクティブコ−チとして社長に会うと、取材に来た新聞、雑誌の記者に対して

    ひどく怒っているいることがあるとのこと。社長の怒りのポイントはだいたい共通

    していて、会見の内容がくだらなくて時間の浪費。

    失礼な質問に対する嫌気。会見後の記事の内容に立腹。取材そのものが不愉快な場合も

    多いとのことです。

    一方で、全く反対の評価を受ける人もいるとのこと。 

   「いやあ、このあいだ取材に来たとにかくしつXX新聞の〇〇さんという記者は、

    実に素晴らしい人だ。

    うちの会社のことも詳しいし、話していてすごく勉強になったんですよ」と絶賛される

    のを聞いたことがあるとのこと。その記者の何が素晴らしいか聞いてみると、

    とにかく質問が面白くて、社長自身が話している間に多くの気づきが得られたという

    ことでした。

    ◎ 筆者は、上記の上手くいった例を上げ、「質問力を高めることは、人間関係に於いて

    大きな意味をもつものです。」この小単元を締めくくっています。

    しかし、この単元の初め近くで私が述べましたように、双方向の対話が上手く流れていく

    ためには質問力だけでよいのか、少し疑問を抱きました。筆者はカウンセリングのこと

    など常に十分念頭にいれてみえると思いますが、一般論からすると、相手の気持ちも

    配慮したアクティブリスニングなども時として必要と日々感じています。社長の記者

    会見は、どうしても上記のような不快になるのは

    理解はできますが、修正が効く箇所もあるかも知れないとも感じました。

 

 

 12月2〜4日    「良い質問」をする技術」その3

    12月2〜4日   「良い質問」をする技術  その3

 

      <質問は人と人の関係を対等にする>

   質問というコミュニケ−ション手段の特徴として、「質問する人」と「質問される人」が

         良い意味でフラットに、対等な関係になりやすい、ということがあります。

        これは、筆者がダイヤモンド社の編集者聞いた話によると「取材が上手なライタ−は、

        何万人も社員がいるような大企業の社長でも1時間か2時間話しているうちに、

       すっかり打ち解けてしまう」そうです。

   初めのうちは、社長さんも「仕事の一環」として「社長として受け答えしているのですが、

         ライターがここぞというタイミングで「 良い質問をすると、ガラッと雰囲気が変わる」

         とのことです。

   ライタ−が本心から質問を重ねていく中、どんどん社長が胸襟を開き、自分から

        喜んで積極的に話していく様子が傍からみているとよくわかるとのこと。

        これは、もちろんライターの人柄もあるけれど、質問の「人と人との関係を対等にする」

        力も大きいはずと語っています。

    ここでも私は、相互の傾聴力についても考慮に値すると思いますが。

   他のコミュニケーション、例えば上司と部下の間の「指示・命令」はほぼ確実に上位者が

         自分より下位の人に対して下すもの。つまり固定した「上下関係。つまり固定されたされた

       「上下関係が明白にある」とのことです。このことがコミュニケーションの前提になって

   います。

   それに対して、質問する人とされる人は、すぐに立場をスイッチして入れ

   替わることが可能です。

   ですから対話がうまく流れていくことになります。

    しかも、質問には「思わずそのことについて考えてしまう」という強い力があります。−−−−

 

   質問には(必ずしも上下関係がないわけではありませんが)上下関係を変化させる力が

   あります。

   と筆者は力説しています。さらに次の言及に注目すべき発言。

   「だからこそ、良い質問は、”上司と部下、”親と子”といった固定的な立場を超えて、

    どんな相手にも気づきをもたらすことが出来るのです。」と何か楽観的とも取れる

    筆者の発言は気になります。

    このような固定的立場を超えれない場合があるが故に、ストレス、メンタル不調がよく発生

    します。そのことについて筆者の見解を聞きたいと感じました。

                  <質問はチ−ム作りに役立つ>

   「目標に向かって士気高く進むチ−ムをつくり、仲間同士の結束力を高めるのにも、

    質問の力は、大いに役立ちますと筆者は述べ、ある店を例にとって説明しています。

    お客様に世界一のサ−ビスを提供するということをモット−にしている高級レストランが

    あったとします。店長がスタッフに「「世界一のサ−ビスをしなさい」と言ったら、

    スタッフは世界一のサ−ビスをしなければならい」と店長がスタッフに言った時、

    その店長の頭の中には、すでに「世界一のサ−ビスとは何か?」という問に対する答えが

    あるのかも知れません。しかし、その答えは、スタッフとは共有されていません。

    「世界一のサ−ビスとは、これだ」と店長から聞かされても、スタッフは

    「自分の頭で導き出したこと」のように感じることは不可能です。

           それとは異なって、ミ−ティングのときに、店長から「今日、世界一のサ−ビスを

    提供するために君は何する?」「君にとって、世界一のサ−ビスって何だと思う?」

    といった問いかけをされたらどうするでしょう。その問について、スタッフ同士で

    お互いに話し合えば、そこで出た気づきは

    全員に共有されます。それを繰り返すうちに、「世界一のレストランのサ−ビス

                                   とは何か」

    という問が、自然にメンバ−の胸の内にめばえてくる。その結果、「自分は世界一の

    サ−ビスを提供するんだ」という意志が、誰からも強制されることなく共有され、

    浸透していきます。

    店長のオ−プンクエスチョンがメンバ−全体の問題意識の共有を生み、目標に向かって

    モチベーションを上げていきます。

    筆者の言うように、組織にとって本当に手に入れたいものがあれば、それは命令よりも

    「問」や「質問」の形で伝えた方が手に入れやすいのです。

    人は、上から一方的に決めつけられたリ、命令されると反発や嫌悪を覚えます。

    それに対して「質問」は、相手の頭の中にすっと入っていくという素晴らしい特徴が

    あります。チ−ムでの目標の共有や部下とのコミュニケーションに悩んでいる方は、

    是非この質問の力を有効活用して頂きたいとの筆者の熱い願望が伝わってきます。

      <質問が会社の文化と風土をつくる>

    質問の力は、周囲の個人だけでなく、何百人、何千人と集まる組織にも良かれ、悪しかれ

    多大な影響を与えるとの筆者のご指摘。色んな企業の経営者とコ−チングしている

    経験からにじみ出た言葉と感じます。

    会社でよく交される質問は、その組織の「企業文化」や「風土」とも密接な関係がある

    とのこと。

    筆者が以前会った、あるベンチャー企業の社長にYさんがいたそうで、その企業では、

    社員から新規事業のアイディアを集めて、よいアイディアは次々に事業化していくという

    方法をとっていたとのこと。しかし、Yさんが社長になって以来、社員から多くの

    アイディアが出てくるものの、なかなか実現に至らず、Yさんは筆者に

    エグゼクティブコ−チングの依頼をしました。

 

    社長のYさんに話しを聞くと「イノベーションを起こすようなアイディアが、次々と

    出てくる企業にしたい」との願望。

    ところが、アイディアを検討する会議に筆者が同席したところ、Yさんは、

    「それは儲かるのか」「実現するまでにコストはどれくらいかかるのか?」 

    「本当にできるのか?」といった聞かれた社員のアイディアが広がりにくい質問ばかり

    していたとのことでした。

    Yさんの言 「新規事業を成功させるために、そういう質問をするように心がけて

                                    いるんだよ」

    「でも、実際に聞いてみると、まだまだ細部まで考えられていないアイディアが殆ど

     でね。これまでビジネスとして実現したアイディアは一つもないんだ」

    そう語るYさんに筆者は次のように質問したとのこと。

    「なるほど、そうですか。ちょっと思ったんですが、例えば、同じIT業界ということで、

    もし創業時のグ−グルの社長が今日の会議に同席していて、社員のアイディアを

    聞いたとしたら、どんな質問をすると思いますか?」

           するとYさんはハッとした顔をしました。しばらくメをつぶって考え込んだ後で、

    言いました。

    「他者ではやっているか?とは多分聞かないだろうな」Yさんは、自分の質問が新しい

    アイディアの芽を摘んでしまっている可能性があることに気づいたのです。

 

      ◎筆者のコメント ビジネスのことでの発言として、

    Yさんのように「儲かるか、儲からないか」をシビアに問いかける質問も必要。

    しかし、その問は「自由にアイディアを求める」場面では有効な質問ではありません

    でした。Yさんが、儲かるかとか、役立つのか、実現可能か、と質問することで、

    自分の想いとは裏腹に会社を将来大きく発展させるかも知れないアイディアの芽を

    潰していたかも知れない、と気づいたとのことです。 

           ◎ 私のYさんの会社のアイディア検討会についての印象

     よくあるワンマン社長の社員とのやりとりを想起しそうな例です。

     社長の目線、価値観で社員の言ったことに批判的に捉えている質問の仕方ですので

     これでは、折角何か社員が思いついても潰されていくようで、言う方がアホらしい

     感じになってしまいます。会社も若手を育てる教育の場でもあるのですから、

     提案者のプラスの面は評価し、マイナス点はどうするとよいか全体に質問を

     投げかけて、皆で考えていく雰囲気にすると検討会が活性化するのではと感じました。

     その後のAさんは、反省してミ−ティングの質問を変えたとのこと。可能性を摘み取る

     質問から以下のような開かれた質問にシフトするように心がけたのです。

     「君はどうしてそのアイディアを実現させたいの?」(動機を問う)

     「市場はこれから10年でどのくらい変化 すると思うの?」

     「他にはどのようなアイディアがあるの?」

     「その事業は5年後にはどうなっていると思うの?」

     「そのアイディアで世界をどう変えたいの?」

     「他社と組むとしたらどんな会社?」 

     数年後、Yさんの会社では、今や誰もが知るネットサ−ビスを展開するように

     なりました。

     社内のアイディア会議では、次々にサ−ビスのタネが話し合われているそうです。

       組織の中でよく使われる質問は、その集団の本質を表しているとの筆者の言葉。

     トップが「売り上げがどうなっている」と社員に質問していれば「売り上げを重視する

     企業風土が生まれ、「顧客は満足しているか?」という質問をし続けていれば

     顧客志向の会社となるとのこと。

     たとえ業種、業態、規模が同じであっても、会社によって企業風土が全く違うのは、

     そこで交されている質問が違うからと筆者は指摘します。つまり組織の風土を

     変えたいなら「質問を変える」ことが非常に有効だということですとの筆者の見解。

     特に社長の質問を変えることが役員、社員の質問も

     変わってくるとのことです。 

     (確かにトップの質問の変化は、社内の風土にインパクトを与えると思いますが、

     それだけでなく 社員の教育等も不可欠と思います)

 

 

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