令和2 1月31日 OD導入に際しての懸念後半 その2
令和2 1月31~2月4日 OD導入に際しての懸念 後半 その2
<ネットワ-クと責任>
ここでは原則③社会的ネットワ-クの視点をもつについて筆者が以下のように
言及しています 。
「ネットワ-ク」はすでに述べていますように患者と家族、友人、知人等の
つながりのある人々とのワ-クを意味します。ODの源流の一つは、システム論的
家族療法であり、本人の問題(それとほぼ似た疾患も含めて)はネットワ-ク中で
起こると。この発想(ネットワ-クと責任)はここに由来するとのこと。
ODと家族療法との違いは、ODなら本人の行動次第で外へ伸び、本人が同意すれば
このネットワ−クに誰でも参加できる点にあると。
日本の臨床現場では、家族の同席することすら受け入れられない場合も少なくないが
近年では積極的に家族相談に応じる臨床家も増えつつあってそれほど懸念することに
当たらないかも知れないとのこと。
原則④責任とは最初に関わりをもった治療チ-ムが治療のすべての過程に関わりをもつ
とのこと。身体疾患で入院にも必要あればチ-ムは病棟に赴いてミーティングを開くと。
この原則は次の原則②心理的連続性とも深く関係している。ODの実践ための基本要素
(11)ミーティングの継続性、連続性を保証するとの規定があります。
これは具体的には同じチ-ムメンバーが余り間隔を空けず継続的に関わるという意味です。
患者の状態が急性期から抜け出して症状が改善できるまで同じチ-ムの関わりは、本人
のみならず家族に対しても続けられると。この点も日本の臨床現場とは基本的発想か
異なっていると。
筆者が言うには、日本に重視されるのは「治療者の互換性」の方ではないだろうかと。
つまり担当医が交代しても同じ品質のサ-ビスが受けられるようにできるだけ特別な
ことはしないという発想である。ともすれば医療をファ-ストフ-ド的な均等化に導かねない
この考え方は、若い世代の臨床家に広く共有されているように筆者は思われると。
この発想もここには日本に於いては治療期間が長期化しやすいという問題が関わって
いると。ODの場合でも少なくても急性期への介入については2週間程度で改善が
起きることが一般的のようとのこと。つまり責任や心理的連続性という発想は短期決戦
型で治療を考えているという前提故に可能となっていると。
治療を長期で考えるならば、治療者の交代を視野に入れた発想になることは避け
られないと。(もう一つ私は、、ただ長い期間だから交代を考えるのでなく、患者と医師
との問題も考慮に入れた人選の検討も必要と考えます)
<不確実性の耐性>
私は、今回のODの関係書を通読していて、ふと平井孝男先生の精神分析関係の著書の中で
「患者が治療の主体になる」という記事に出会ってまさに「目からうろこがとれた」思いが
したことを想起しました。このテ-マ「不確実性の耐性」を発揮する際の大事なポイントに
なると思います。筆者はこの耐性はODの根幹をなす原則の一つであるとの指摘をしています。
急性期の明日何が起こるのか誰にもわからない状況を如何にして支えるか。
Seikkulaは「対話こそが迷宮を脱するための難問解決のための手引、方法である」と述べて
いるとのこと。チ-ムによる対話の連続を通じて安心と安全をもたらす治療的文脈や場面
づくりがなされ、どんな発言も傾聴され、応答されるという雰囲気が共有され、こういう
雰囲気が共有される。こうした土台の上に立って初めて対話は治療的なものとなる。
この考え方、システムはODの中核としてすでに各所で述べられています。
しかし、クライアントは精神障害者なのですので、感情や理性の働きがぶれることがよくある
ことなのですので、それにどういう対処をしてODを進めていくのか疑問に思います。
筆者は、上記のODの通例のパターンに対比して日本の臨床では、異なる対応を指摘します。
急性期の「不確実性」に対しては、多くは隔離拘束-(行動制限と身体拘束による措置)です。
私が名古屋市内のあるNPOで問題なく、自閉症スペクトラム、アスペルガーなどの
障害者とカウンセリングをしていましたが、その後事情があって幾人かのstaffが去り
私もさりましたが、一昨年その後のNPOの様子を伺うと、なんとそれら二人は隔離拘束で
面会できないと言われました。
しかし、筆者は長期の身体拘束があるにせよ、この風潮に対抗する上で「不確実性への耐性」を
力説しています。たとえマイナスの変化であっても、想定外の出来事ことはしばしば転機に
なるからであると。
でも想定外の悪化事態として自殺者でも出たら誰が、どう責任を、をとるのかと私も
そういいたくなります。実際その例に遭遇していますので。
筆者は、薬物治療や入院治療をできる限り行わないことで見かけ上増大する「不確実性」こそが
OD導入に際しての最大の障壁になり得ると。
薬物や入院を用いないことで不足の事態が生じた場合の責任はどうするのかという怖れが
ODの導入を躊躇される最大の要因になるからであると。
フィンランドでもODの発祥地採トルニオ市以外にODの実践が広がらない理由の一つである
とされる。この点に関して筆者は「治療経験と実証を重ねることで乗り越えていくほかないで
あろうと。」原則⑦の対話主義は、一言でいえば対話のもたらすポジティブな変化に対する
信頼であるとの筆者の見解。
ODの過程とは対話を続けることを目的として多様な声に耳を傾け続けることである。
それは「ODのゴ-ルは変化や改善、治療ではない。」それらは副産物である。
副産物に執着すれば対話は停滞する。
(ここで私はODからOAへの未来指向にステップアップを目指す情熱を感じました)
それは素晴らしいです。でもその前に「多様な声に耳を傾ける」について疑問を感じます。
元来このODは統合失調障害の方々の治療から出発していると伺っています。
しかし、この人々は、通常のカウンセリングでは通じませんし、連合弛緩など物事の理解に
支障が生じることなどあります。私自身も接していてそう感じたこともあります。
ですから、そう簡単に障害の発生した人を対話のチ-ムに迎えることでうまくとは
思えません。その前に事前のケアが必要と感じますが----。
でも平井先生が述べてみえますように「患者が治療の主体になる」の道が開けていく
可能性があるのはとても素晴らしいことと痛感します。