2月18日 心の痛みを未来の糧に 宇都宮大準教授 澤田匡人先生執筆 その1
2月18日 心の痛みを未来の糧に 宇都宮大準教授 澤田匡人匡人先生執筆 その1
児童心理 3月号より 特集 負けず嫌い
筆者は、負けずぎ嫌いのテーマを念頭において、小中生のテスト成績に起因する生徒間の
妬みの実態について検討し、良性の妬みと悪性の妬みに区分し、前者は、自分の成績が
振るわなかった原因をふりかえり自助努力していく。それに対して後者の悪性のそれの場合は、
自分を返りみることなく、相手を妬み、かげ口、いじめなど相手を苦しめる行動にでたりする。
この記事では、そのような実態を、ただ述べているだけでなく、悪性の妬みの生徒を
どのように自省に導いていくかについても言及していることに興味を抱きました。
今回の記事を通読していて、こんなこと学校に限ったことでなく、似たようないじめ、
パワハラ、嫌がらせが職場にもあり、実際にかってのクラスメイトからも聞いたことが
有ります。以下筆者は、上記のテ−マにつて次のように述べています。
1 負けず嫌いをこじらせて
「小学校の時に、やけにつっかかってくる女の子が一人いました。私が他の子と仲よく
したりテストで良い点を取ったりして、その子よりよい状態にあると、体操着を屋外に
捨てられたリ、ランドセルに傷つけられたリしました。−−−いじめの特徴に当てはまる
行為を受けていたなあと思いだしました。」
これは、筆者の授業で「いじめ」を解説した回で受講生が書いたコメントを一部改変した
ものとのこと。その学生に委細を尋ねたところ、当時は相手に言い返したり、教師に助けを
求めたりして大事には至らなかったという。
この事例について筆者は、何故こうした陰湿な嫌がらせを受けなければならないのかと
述べ、私たちは、自分より良い状態にある他者を目のあたりにした時、多かれ少なかれ
彼らから刺激を受ける。そして刺激の矛先がどこに向けられるかによって、その結果が
異なってくる。相手に負けた自分自身に向けられるならば、場合によっては、自己を磨く
きっかけになるかもしれない。しかし、矛先が優れた相手に向けられ、しかも同じ土俵の
勝負からおりる道もある。いくつかの枝分かれするその道さきに、すでに敗北している
にもかかわらず、執拗に相手の足を引っ張る姿がある。このように「負けず嫌い」を
こじらせてしまうと、すくなくても相手に迷惑極まりない結果に招かれる。また、
こうした帰結を案じてか「人と比べるのは良くない」とたしめられることさえある。
2 負けた苦痛の癒し方
しかし、どうあってもね周囲と比べてしまうのが子どもというものだ。比較するには
それなりの理由がある。児童期から思春期にかけて、自分という存在を知り、それを
再構成していく渦中にあっては、他者から自分を相対化しておくのは極めて
重要な作業と言える。「社会的比較」と呼ばれるこの過程では、自分と心理的に近い
対象者が選ばれ易い。 この社会的比較には、二つの方向がある。
一つは、「上方比較」で自分より優れた人に向けられる比較によって、自己評価が
下がって相手との違いが際立つとネガティブな感情が、相手に感化されて、相手に
同化しようと思えるポジティブな感情が生まれる。
他方で、自分より劣った者と比べるのは「下方比較」という。自分よりも相対的に不幸な
人を見れば、私たちはたちまち元気を取り戻すことができる。もちろん、同情や哀れみの
眼差しを向ける場合もあるわけで、、下方比較が常に喜びを生むわけでない。
下方比較から満足感を得られる条件とは、自分が窮状に喘いでいる時や、自尊感情が
低くなっている場合だ。また、下方比較には、誰かの悪い噂話に花を咲かせるような場合と
他者をおとしめようと行動して、故意に傷つけるような場合がある。筆者が初めに
紹介した小学生は、まさにこれに当てはまるとのこと。下方機会をつくるために
わざわざ捨てたり、傷つけたりする子供。(その子の自己防衛としてしたと感じます)
一体何のために?それは、自尊心の低下。もっと言えば、プライドを傷つけられたことで
生じる「妬み」を和らげるためだったとは考えられないだろうか。(その通りと感じます)