7月31〜8月3日 傾聴によって生まれる「心に寄りそう」支援 その2
7月31日〜8月3日 傾聴によって生まれる「心に寄りそう」支援 その2
ここでは、過日の日進市の障害者自立支援協議会で、T先生が話された「障害者の差別解消」に
関わる記事を通して障害者の権利擁護の筆者の見解を参考にしてこの擁護の問題に言及
したいと考えています。
花も人間関係も調和があってこそ美しいのです。生け花の技法も撮影も鈍臭さ
丸出しですが、そこに私らしさを見て頂ければ幸いです。あるその道達人は
「あなたのまねはできない」と言っていました。鈍くさいところが私の存在価値かも
知れません。
▲ 傾聴と日本国憲法13条・子供の権利条約12条
筆者は大学教員をやりなから病院の精神科でカウンセラーもしてきたとのこと。カウンセラ−は
心に悩みを抱えた人の言葉(気持ち)i耳を傾けるのが仕事。その人の目や心には、この世界や
自分自身がどのように感じられているだろうか?そのことを理解しようとして、その人の語りに耳を
澄ます。それは、憲法13条の1「すべて国民は、個人として尊重される」という文言を直接具体化
する仕事のようにも思える。
その文言を筆者流に言い換えるなら、「自分が自分であることを尊重される」ということであり、
「自分が自分でなくなることを強制されない」ということだ。それは、一人ひとりが人生の主人公
として、尊重されるということである。相手をそのように尊重すればこそ、その主人公の目や心に
この世界や自己がどう見え、感じられるか、その主人公に寄り添いその人の立場に立って理解
しようと努力する。この「個人として尊重される」という精神は当然子供にも適用される。
子供は、未熟な成長・発達過程にいる存在。たから保護を必要とする一面あり。
しかし、同時に権利主体であり、個人として尊重されなければならない存在でもある。
大人だからといって上からの目線でそれを軽んじることは許されない。以上のように筆者は説いて
います。 さあ、この文言を私は、障害をもった青年の集会で読み上げて、彼らの反応を
知りたいと痛感しています。 時々私が引用します名駅近くの低空飛行の「ひきこもりの集会」
(正しくは、ひきこもり経験者の集会)なのです。でもNPOの利用者さんと同じくここに集う人々も
私は、殆ど隔たりを感じません。その理由は、この集会でも、NPOしても、自分のありのままに
素直に語ってくれるので、一般の人と異なりそのままを受け取れるし、ハンディがありながらも
結構努力していることが分かり、 実社会での就労体験の話を聞くと、つらいことがあっても、よく頑張って
いて、つい『あなた方の存在はそれなりに価値がある」と褒めたくなる思いに駆られ
ます。 とは言え、母親から「福祉手帳を持っていることを、人に話すな」
と言われて憤慨したという話を聞くと、上記の筆者の「尊重」という言葉の裏を知って、とても悲痛な
感じがします。このようなことを考えますとと、障害のある児童期の子供さんの「障害者への
差別」で日頃感じていることと、(先輩の青年たちの方が望ましいと私は思いますが)
それを聞いた親、企業側の人、その他の市民の意見を述べる研修の開催を切望します。
単なる一二度の集会で終わることなく、市当局の関係する方々も条件整備で支援して頂けると
いいと願っています。
<子供の権利条約について>
この条約は、子供を権利主体として尊重することを謳っている。子供の指導に当たって、その
「最善の利益」を考えるに際してもおとなが勝手に判断するものでなく、こどもの「意見表明」が尊重
されなければならない。(12条意見表明権)。との指摘は私の考えていることと合致します。
しかし、この意見表明について、筆者はつぎのようにかんがえています。
「この場合意見や見解をおとなのそれと同様に理解するだけでは、理解が狭くなると私は感じる。
幼い子供たちは、決して自分に見え感じる世界の姿を明確に言語化できるとは限らない。
だから、明確な言葉のレベルでなくても、非言語的な行動やイメ−ジ、時には症状」などを通して
子供が訴えようとしていることまで範囲を範囲を広げて、その意味をとらえる努力をおとなはすべき
であると考える」
◎子供を個人として尊重する筆者の熱い思いが伝わってきます。
特に障害児の場合、この筆者の主張は胆に銘じます。
最近の私の関わるNPOのダウ症児の保育士を強く蹴って大怪我を負わせた事件にしても、
相手が相手だけに仕方ないではなく、日頃の家庭での療育実態はどうであったのか、
この特別学級でこの子と担当職員の意思の疎通に関わる教育はどうであったのかが
検討が不十分だと今後たの子供さんとのことにも関係してくると懸念しています。
筆者の強調する非言語的な要素の行動、今回のような職員への暴行は単なるわるふざけ
として済ませてしまうと何か禍根を残すかも知れないと私は感じます。
(事業所のみならず、この子の今後ことでも)