8月9~12 日 自分のうつを治した精神科医の方法 その2
▲ 親子関係が、うつの根底にある
宮島先生の次の言葉に注目します。「うつ病を引き起こす最大要因は、親子の関係
にあります。ここがその原点といっていいでしょう。」
「どういう親であるのか、そして親にどういう育て方をされたのか、によってうつ病に
なりやすい人がつくり出されます」 先生の成長過程の事例は以下のとおりです。
先生は典型的な教育ママのもとで厳しく育てられ、やがてもの心のつく頃に
なると、「こういうふうに生きていていいのだろうか」と心の空洞に対して疑問を
抱くようになったとのこと。
うつ病になる人は、特有の考え方をする傾向が顕著とのこと、その考え方は、親に
よってつくられると先生の言。特有なこととして、否定的な考え方をする。
「自分は生きている価値がない。いてもいなくても、どうでいい存在である」
どうしてそうなるでしょうか?
先生の場合、「母はいい成績、いい学歴、いい地位にしか価値を認めない人」
一流の大学を出た人でないと認めない、職業も、大企業のエリ−ト社員とか医師
弁護士など社会的ステ−タスがあるものしか認めない。そういう偏った固定観念に
縛られた人。その価値基準、固定概念がその子供に影響する訳です。先生の
父親は、母親の価値基準をすべて満たしていたそうで、有名私大出で誰もが知る
大企業に就職し、人並み以上に出世したとのこと。
しかし、彼女にとっては当たり前のことで、それだけで夫を認めなかったようです。
従って夫に対して尊敬や感謝の念をもっているとは、子供からみてそう思え
なかったそうです。しかもその母親はとても気が強く、夫とけんかしても一歩も
引かず弁が立つので夫を言い負かしていた「かかあ天下」でした。
ですから、心の中で反抗しても、先生としては、母の意に沿うよう勉強しなければ
ならない心境でした。 母親は名門の中高一貫の開成中学にいくようにいい
小学4年から有名塾に通うようになつたそがんばっていたそうです。その塾は猛烈な
詰め込み主義で毎週テストがあり、点数がよいと母親は喜んでいるので、ついうれしく
なって、何の疑問ももたず頑張っていたとのこと。しかし、点数が悪いといい顔はせず
追い詰められた先生はカンニングも仕方ないと考え、何回もそれをしたとのこと。
良い点数をとったと知った母親が喜んでいても、先生は、「それで本当にいいのだ
ろうか」という思いが徐々に膨らんできたそうです。しかありし、めざす名門校に
入りたいの気持ちもあり、何とかかんばり続けて運よく合格したとのことです。
▲ 自殺したいと思っていた高校時代
名門の開成中学に入学し、中高一貫の進学校でみな一流大学を目指して勉強に励んで
いたそうです。先生もその中にいて一生懸命に勉強し、定期試験では、常に上位だった
そうです。当時の人気TVドラマ「スク-ル☆ウォ-ズ」の影響もあり、入学してすぐ
ラグビー部に入部したとのこと。最初のうちは頑張っていて明るく振る舞っていたそうで、
しかし、コーチからは、「将来が心配な子」と言われていたとのこと。
自分の明るさが見せかけのものと見抜いていたそうです。
このラグビー部もやめて、その後はいわゆる「帰宅部」になったが、古本屋めぐりして
漫画を買いあさったりしていたそうです。このころになると、「もう母が望んでいるような
人生は歩みたくない」とはっきり思うようになったそうです。 中学の頃はまだよかった
そうでしたが、高校へ進学してからは、通学するのが次第にいやになってきたとのこと。
それは、学校や勉強が嫌いなのでなく、家庭環境と母親が嫌いだったのです。
(思春期になって自我が目覚めてくると 、親に操られる自分に嫌気がさしてきます。
私自身も中学生のころになると、兄と共に、" 亭主関白で、母に嫌味をいい
社会的なステ-タスでは、大都市で実績をあげたある建設会社の責任者として実績を
あげましたが、その反面不倫なことをしていてあまり家庭を顧みず、そのくせ
子供に対しては、"俺が食わしてやっているという高飛車な態度" にとても反発を
感じ、高校に入ってからは、宮島先生のように、こんな家から脱出したいと思って
いました。 但し、私は、宮島先生と異なって中学の時には、担任の先生に恵まれ
色んな自分の欠点がある中で、将来に向かっての可能性を引き出して頂いた二人の
恩師に感謝しています。教科では、「タ−ザン」の異名をとった英語のS先生i宿題の
ことで2回殴られましたが、この先生のお蔭で高校に入っても英語を自力で勉強し、大学の
卒論では、米国の教育関係の官報を読解して資料として入手できました。
要は、家庭内で問題を抱えても、自分の気持ちを理解してくれたり、自分の能力を
引き上げてくれる先生でもいるとメンタル不調になりません。)
私事のお話が長くなって失礼しましたが、また宮島先生の話に戻します。
「家には居場所がないと感じ、自分の部屋に閉じこもり、漫画を読んだりパソコンに
熱中したりしました。」高校1年の時はハンバ−ガ-ショップでアルバイトをして
お酒、たばこをやって不良ぶっていたとのこと。パンクやロックが好きなことから
軽音楽部に入り、ギタ-やサックスをやったりもしたが、心を許す友達も余りできず
長髪にピアスといういでたちで、学校では浮いている存在だったそうです。
「こういう生活が続く中、何回も死にたいと思っていました。すっかり自分を見失って
しまい、自分に価値を見いだせなくなっていたのです。自分自身を悲劇の
ヒ−ロ-になぞらえ、死ぬことをよく頭に描いていました。自殺したいという願望を
はっきり自覚していました。
そんな自分でしたが、高2の時医学生の女性と知り合いになったことがきっかけで
変わってきました。その人は、高校の私の先輩と付き合っている女性でしたが
彼女が医師という職業の魅力を語るのを聞いて、僕も、医師なら無価値な自分でも
人の役に立てるのではないかと考えました。そして医師を目指そうと心に決めた
のです。 それからは受験勉強に身が入るようになり、頑張って、1年浪人した後
無事、二つの大学の医学部に合格することができました。」
◎ 私の感想
医学部進学の動機のことが出ていて、色々なことが浮かんできました。
先生のメンタルの危機的状態の時、医学生の女性の感化を受けて医学を
志す決心したとのこと。
その意志決定の過程で、私は問題点を感じました。
医師という職業がどんなに魅力的に感じても、"自分とその職業とのマッチング"
これは、どうでしたか?「無価値の自分でも人の役にたてる。」謙遜な意味なら
それはそれでいいのですが、NPOのボランティアですら、それ相応の能力と
責任が問われます。「熱しやすく冷めやすい」そんな一時的な思いから起因した
決心すら感じ取りました。家族の方との相談が無理でも、可能な限り情報を
得て、医師になったときの適性、責任能力についてもっと慎重にすべきと
痛感しました。その後の医師になってからのご苦労の記事を読んでそう思います。
失敗から学ぶことも、出ていましたか゛、学ぶ前に関わった患者さんの治療を
適切にできなかったことの責任はどうされるのですか?など---。
医師としての人間性、使命感けなどそっちのけで、この先生の親のように社会的な
ステ-タス(地位、評価)を重視したり、医療ビジネスで一儲けしようとするクリニックが
大都市周辺の新開発地で増えてきて、実際に利用してその無責任ぶりにうんざり
することがあります。