11月4 日~9日 社会的ひきこもり その4
ここでは、「家族のコミュニケーション」と
大人としての成熟」に焦点を当てて締めくくって いきたいと思います。
<正論・お説教・議論の克服>
ラベンダ-畑
▲ そこにあることを認める
斎藤先生が言われるのに、「ひきこもりの状態にある人ときちんと向き会うのは困難です 。
何故なら 私たちには、基本的に "働かざるもの食うべからず"という価値観が骨がらみに
染みついて いるからです。 このため私たちがとってしまいがちな態度は、
社会的ひきこもりを 否認する態度です。
つまり、まさにそこにいるにもかかわらず、何もないふりをすることです。
その結果の一つが 彼らに対する叱咤激励ということになります。」
ここでは、ひきこもりの目線でなく、世間体にとらわれて、家族が「何もないふりをして」
(分かっているのに本人によそよそしい態度で)じれったい気持ちでしった激励する
ということ なのです。 これでは、本人との意思の疎通はできません。
さらに、先生も、もう十年以上も彼らと付き合ってきた自分ですら、しばしば
「お説教」や「議論」の 誘惑に負けてしまいそうになるとのことです。それどころか
時には[甘えている」
「怠けている」 「権利を主張しつつ責任を回避している」 「両親に責任転嫁している」
などと いったどこかで 聞いたような紋切り型がふと頭をよぎることすらあるとのこと。
「ひきこもり事例と向き合うためには、こうした社会通念、言い換えれば"ひきこもりを
否認したい衝動"と戦わなければなりません 。」
(これは、当事者の家族にとって辛辣な先生のアドバイスですが克服すべきハ-ドルです)
続いて「そのために重要なことは、社会的ひきこもりという状態が、ともかく
そこにあるという 事態を認めることです。いい換えるなら、彼らが"人間として間違った
あり方をしている"と いう 見方をしてはならないのです。そうではなくて、
彼らが何らかの形で援助や保護を必要としている という視点を受け入れることです。
この言葉の重みは、メンタルにハンディのある人々と直に接するようになって分かって
きました。 実際、何もせず朝遅くまで寝ている実態をみていると、親として「あいつは
だらしない、怠け者」とつい言いたくなります。しかし、彼らは精一杯生きているのだと
日頃 私は思っています。 ここのギャップを埋めるのにカウンセラ-も関わっています。
▲ 努力と激励の限界
引きこもり状態が数年以上続いて慢性化したものは、家族による十分な保護と専門家による
治療なしでは立ち直ること不可能と先生の言。---「私は何よりも、家族がひきこもり
持続例を抱え込もうとする態度を警戒しています。抱えこませないために、あえて挑発的に
"慢性化したひきこもりは、 本人一人の努力や家族の叱咤激励だけでは、決して治らない"
ということを強調しているのです。
長期化したひきこもり状態にとっては、このような個人システムないしは家族システム内部
だけの 努力では、どうしても限界があるからです。」
▲ 一方的な受容の弊害
(本人の)努力と激励が無効であると宣言されると、何でも受容していけばよいのかという
ことになる のですが、これも極論とのことです。
「受容を基本姿勢にしなければ治療にならないのは当然ですが、しばしば忘れられて
いるのは、受容するためには、枠組みが必要であるという常識です。」
相手を所有したがっているのでなければ、自らの万能に酔っているだけです。
治療の場面でも、どのように受容の限界を設定するかは、大変重要なテ-マです.」
この指摘は、治療に関わるカウンセリングでも肝に銘じておくべきと感じます。
実際 メンタルにハンディのある人々とカウンセリングしていますと、この受容の留意点
について思いあたることがあります。受容し続けていると相手は依存性が強くなり
自己中心的な甘えが出やすく、他罰的になって時 としてやけくそになって器物を壊したり
親に暴力を振るった例があります。ですから時として事前に感情を制御する対策として
行動療法を少しアドバイスすることもあります。そして家族に対して、批判的になって
暴言を吐くなどしないよう対話のル-ルを守るこことも必要です。
「一方的な受容は一方的なお説教と同様に有害と考えます。そこに十分な
コミュニケーションが 成立していないからです。相手が不可解な行動をとり、
そのために 周囲が困惑する。 そのような状況が起こった時、その相手との対話を通じて
理解と共感を 試みるでしょう。----」
自分の子が社会をさけてひきこもり始めたら、次のことをすべしと先生はアドバイス
します。 その理由を尋ずねる、そして一度はじっくりと説得をしてほしいとのこと。
そしてそのような 試みを通して本人がどんなに悩んでいたか初めて明らかにされる
こともあるとのことです。
「対等に近い立場でお互いの意見を述べ合うことは、たとえ反発を買うにしても、
よいコミュニケーションのきっかけになりうるでしょう。」
◎ このアドバイスはそれなりによいのですが、日ごろの親の接し方が気になります。
日頃親がこのような接し方をしていたなら、「ひきこもる」前に親と相談するのではと
私は感じました。事が起きてから対等に近い立場で話し合うことを呼びかけても
「泥棒を見て縄をなう」のと同じような印象を受けます。
要は日頃の親子の対話のあり方なのです。
<引きこもりの家族や他者との関係>]
1 家族との関係の改善を目指して
斎藤先生が言うには、「 一般のひきこもっている青年達は傷つけられることを非常に
恐れます。たった一言で゛自らの存在自体が否定されてしまいかねないことをよく知って
いる からです。」もちろん、彼らのこうした恐れは、十分尊重されるべきです。 しかし、
ひきこもりを 続けている限り、精神的成長が起こらないこともまた一つの現実なのです。--
他者との出会いもなく、リアルな外傷もそこからの回復も一切ありえないからです。」
以上のことを前提にして上記のテ-マ(家族と他者との関係)を考察していきます。
▲ 家族と本人との 関係について
先生によれば、「ひきこもり事例に於いては、もはや家族は他者ではありません。
彼らにとり、家族は、あたかも自分の身体の一部のように扱うからです。」 本人に
家族が気を遣って 恐る恐る対処していると、次第に増長して尊大な態度になり、
特に母親に対して支配的と なり、気に食わないと暴力、器物破損など目に余る
行動に出ます。
先生の言「私がコミュニケーションの回復をしきりに強調するのは、まさに家族の
他者性の回復のためです。---(自分の主張を一方的に話す)家族とのやりとりは、
コミュニケーションからほど遠い。」そして次の留意すべき箇所
「たとえ肉親であろうと、自律的な判断と行動の権利をもつ個人であるという認識が
あって 初めてコミュニケーションの可能性が開かれるのです。」
(つまり相互に主体性のある人格として認め合うこと、これが家族間の他者性の回復
にとって不可欠と感じます)
上記の先生の忠告を実践することで本人に家族の気持ちが伝わり、本人の
回復への意欲に影響するものと思います。
斎藤先生は親も本人も「対等に近い立場で話し合うことを提唱していますが、
この手法は、コンファメ-ション(公約)と言われます。親子、上司と部下のような
上下関係 のある間で、話し合いの中で「相互相手の主張にしっかり傾聴して、批判
否定などしない という約束をして話し合うのです。アサ-ションと似ています
2 対人関係を通してのひきこもりの成熟
斎藤先生は、よく「ひきこもり」の治療を成熟の問題と結びつけるとのことです。
しかし、この成熟は極めて難しい問題であり、とりわけ精神分析の分野
(フロイト、エリクソン等)で 一大テ-マです。先生なりの「成熟」のイメ-ジは、
社会的な存在 としての自分の位置づけについて の安定したイメ-ジを獲得し
他者との出会いによって過度に傷つけられない人」。
ここでいう「過度に傷つけられない人」とは、時には色々な外傷をおいながらも、
痛手を乗り越えて次第に傷に耐えられる免疫力を得る人で後述で出てきます。
おおむね先生は、患者さんが最終的にこうあってほしいという理想像を持ちつつ
治療に当たって おられるとのことです。
上記の成熟のイメ-ジは、米国の有名な心理学者エリクソンE・H氏を想起します。
自己の位置づけについての安定したイメ-ジとは 自我同一性(ego identity)
なのです。自己とは何か、自分の人生の目的は何か、といった社会の中に位置
づける問いかけに対する 答えが 一言で言えばこの自己同一性なのです。
次に成熟していく過程の中で先生が注目するのが「外傷への免疫への獲得」です。
▲ 外傷への免疫の獲得
ここでは、対人関係に於ける外傷の免疫力(人を恐れなくなる)を得て、なんでも
話せる親友をつくり、ひっこもりの最終目標に到達していく過程について先生は
述べています。
外傷の免疫を得ることは、感染にかかって回復することと似ているとのこと。
人は、ある程度雑菌にさらされたり、時には軽い感染などを経験しなれば細菌に
対する免疫 機能は発達しないとのこと。「ここで重要なことは、何らかの形で感染を
経験すること、そしてその 感染から確実に回復させること」と先生は明言しています。
免疫と外傷が似ているのは、それが他者との出会いによって生ずるという点です。
「本当の意味で重要な他者との出会いは、どこか必然的に外傷性を帯ひ゛てしまう
ではないで しょうか?」という先生の問いかけです。ここで注目したのは、
「重要な他者」というキイワ-ドです。それは、究極的には「ひっこもりの最終目標」に
かかわる「親友」のことです。
この重要な他者との出会いは、「暴力的な他者かも知れない。死や喪失といった
抽象的 他者かも知れない。或いは人を魅了してから見捨てるような他者かも
知れません。 そのように予測を越え、コントロールできない他者をどう受け入れて
乗り越えていくのか」、
上記の例とは異なりますが、行政当局が推進している障害者の法定雇用率の
義務化についてNPO小セミナ-で私が説明すると、あるメンタルにハンディの
ある女性は、就職しても、対人関係で、また新しいトラウマをつくってしまう
のではと懸念の気持ちを率直に表明しました。
形だけの障害者救済では、本人の言う通りです。一、二回の企業内の研修では、
このような障害者の受け皿にはなり得ません。こんなことなら、雇用しないで、
そのペナルティ金で間に合わせる企業も出てきます。
24年11月23日のタケダ製薬の子会社エルアイ を紹介しましたブログに、障害者の
リ-ダ-が仲間の障害者の面倒をみることで成功した例を掲載しました。
これも一つの良き参考例です。
「 人は成熟に際して、否応なしに外傷をを体験します。但し それだけでは
足りません。もう一つ重要なことは外傷を体験した人は、外傷から回復する機会を
十分に与えられる 権利があるということです。成熟の過程で欠かせないのは、
この外傷体験と回復という セットなのです。このセットを可能にするのが
まさに他者との出会いに他なりません。」
ただ傷つけられるの一方では、他者の外傷的な恐ろしいイメ-ジしか残りません。
しかし、他者の支持によって癒される体験をすると、
「ただ恐ろしいだけのものでない」という
より正確な他者イメ-ジが獲得れるとのこと。その意味で「外傷への免疫の
獲得」とは 「有効な他者イメ-ジ」を学習する過程でもあるとのことです。
以上のことからして「免疫力」は自力で獲得することもありますが、
他者の支持による癒しの体験の学習効果は、自分だけのものでなく、
苦しむ仲間への波及効果も大きいと感じました。
最後にエリクソン氏が大人になっていく過程の成熟条件としての人間関係の
親密性について述べます。
▲ 成熟条件としての親密性
真の親友とは、相互に心をオ-プンにして、思っていることを自由に話し合える
間柄です。しかし、親しくなったからと言って相手に依存することなく、
独立した人格と人格の交わりです。
同性同士でこのような交わりができてこそ、異性との交わりが可能になり
家庭を築く道も開けます。
中国の思想家荘子の名言 「君子の交わりは淡き事水のごとし。」
(小人の交わりは甘酒のようにべたついいる)
人としての分別のある人は、水のようにさらっとして相手にべたつく
ことはないから 長く交わりが続く、分別の欠けた人は、相手に依存して相手
との交わりは長く続かない。