アルストロメリアを中心とした生け花
まずは両先生の「ひきこもり」の定義とそれに関してそれぞれの見解から
1 石川良子先生の記事 「ままならなささと共にさいとう 生きる」
色々と斎藤先生の見解について批判されていますが、いつ頃の何を根拠にしてそう述べて
いるのか問題と思います。両者の見解を今回の教育と医学をみていると、石川良子先生は
斎藤先生の直近号の記事に出ているOD(オ-プンダイアロ-グ)をみていなくて述べている
ことから違和感を覚えます。「社会参加をしない状態」の期間のことでは、斎藤先生が
ひきこもっている目安として、このくらいという意味で私は了解していますので、
石川先生が「治療の必要上そちらで判断して治療をする必要があるから」期間を
6カ月とか定めていること、そしてひきこもりの定義よりも「治療の方針」ときめつけて
いると感じがします。今回の教育と医学のひきこもりなどの「対話的支援(p25)をみても
ODに於いては対話の目的に治療でなくて、目的は「対話を続けること」であり、
「治癒」「変化」「改善」などは差し当たり脇に置かれますとのことです。
議論、説得、アドバイスは禁物とされるのも対話は終わらせてしまうのを恐れがあるからと。
逆に対話をひたすら継続していくとおまけ、副産物として改善や治癒が勝手に起きると。
(当人の気づきによる自発性尊重が分かります)
内面に関する記事でも決めつけている感じがします。長くなるので詳細は省きます。
P26の上段を参照されると理解できると思います。
例えば以下のような斎藤先生の今月号の見解があります。
「ひきこもり」の当事者は、自分を変えようとする意図や圧力に大変敏感。
支援者がそうした意図を全面に出しすぎると、かえって信頼されないこともあります。
「あなたと対話がしたい、あなたが変わるかどうかはあなたに任せる」こういう姿勢なら
相手から信頼されやすい」と。 このような「ひきこもり」の方に対しての対処の
指針こそ今回斎藤先生の執筆記事の表題「ひきこもり支援のためのパラダイムシフト」」が
指針の180度転換を強調しているです。
人は、長い年月を見れば当人のものの見方も変化しつつ成長を遂げますので、過去にどんな
立場、方針にこだわって批判するよりも、現在を見据えた未来志向のシフトが大切と
考えます。
▲ 「状態としてのひきこもり」は終ったが
ここでは筆者は「私の課題は本人にとってひきこもりがどのような経験
なのか明らかにすることを述べています。
これにつきましては、筆者自身がそうした人々が、斎藤先生等専門家の言説を取り入れて
いても語り切れない部分に注目して例示しています。筆者は色んな専門家の定義に
とらわれず、該当していると思う引きこもり者に対して次のような質問をしたとのこと。
「今の自分のことをひきこもりと思いますか」の質問の回答の例
「自分は外にも出るし、人間関係もあるし、自分は当事者(ひきこもり)ではない。
かと言って完全に抜け出した人でない」と。
一旦「ひきこもり」から就学、就労を通して脱しても、仕事を止めたり、心身の不調を
訴え、再度同類の仲間の集会に戻ってくる人も少なくないと。
つまり「当事者たちは、社会参加の有無だけでは捉え切れない何かに苦悩しており
その何かをつかまえることこそが、当事者にとって「ひきこもり」かどういう経験なのか
明らかにすることにつながるはずです」と。
これは石川先生からの貴重なご指摘と痛感しました。
こういう状態(また自分はもとのひきこもりに戻った)という一種の挫折感を抱きがち
ですが、ODAでも指摘していますようにじっくり自己を見つめて、自己の長所、短所を
冷静に見つめ、新たな人生再出発を可能にする機会にもなり得ます。
一対一のカウンセリングとODA(オ-プンダイアロ-グ)との接点が見えてくる可能も
出てくると思います。
2 斎藤環先生の記事より ひきこもり支援のためのパラダイムシフト
今回の先生の記事について、このパラダイムシフトを念頭に置いて私が注目した箇所を
引用しながら述べます。
この先生の表題のことを考えていて、ふと有名なニ-チェの言葉を想起しした。
「脱皮しない蛇は死ぬ」の意味 蛇は脱皮しながら成長していきます。人も同じような
表現として「一皮むけた人間」そこには成長があるからです。
そして上記の「パラダイムシフト」も支援する側が従来の視点、観点から脱皮してこそ
「ひきこもり」の脱皮が期待できると思います。
▲ 定義及び精神障害との関係
ひきこもりとは、不登校や就労の失敗などをきっかけに、しばしば何年間も長期にわたって
自宅閉居を続ける人を指す言葉とのこと。臨床単位や診断名ではなく、ひとつの状態を
意味する言葉。厚労省研究班の定義では、①6カ月以上社会参加していない
②非精神病性の現象である。③外出していても対人関係がない場合はひきこもりと考えると
されていると。
今回の場合では、ひきこもりについての基本的考え方におけるパラダイムシフトを重点的
に論じたいとのことです。
まず最初の述べておきたいことは「ひきこもりは病名でも診断名ではない」と。
但し厚労省の研究班の報告では、ひきこもりの8割以上は精神障害者として治療の対象で
あるとしていると。
「精神障害として治療の対象になる人が多い」かどうか以上にひきこもり支援ないしは
治療において重要な考え方は、彼らを病人や異常な人として扱うのではなく、「困難な
状況にあるまともな人」として対応することでしょう。
(私自身もそうみているつもりです。NP0ないしは、彼らの自助集会では「xxさん」と
言いますし、彼らが私に対しても「先生でなく、xxさん」でいいと考えています。
筆者は、「ひきこもりとは、ストレスに対するまともな防衛機制です。問題は、最初はも
まともであった反応が、長期化とともにこじれていく過程にあります」
ひきこもる個人の異常性や病理に注目する考え方を「病理モデル」と呼び、逆にその個人の
健康さ、強味、つまり「まともさ」に注目する考え方を「ストレングス・モデル」と
いうとのこと。筆者は、ひきこもりに対しては、ストレングス・モデルで支援すべきで
あると考えている。と(忍耐強く愛をもって対話し続けると本人の失っていたものを
回復できるからと痛感します。
その失っていたものとは、かって心に秘めていた願望とか、気力、それを実現する
潜在的能力などです。いじめなどを受けたり、愛するかけがえのない人を亡くした
などでショックでトラウマに支配されると、今までの自分を喪失して別人に変化
した例です。典型的な例としては、すでに時々述べました境界性パーソナリティー
障害の女性Fさん。仲間と買い物に行ったり、雑談しているときは楽しく
ても、いざ自部屋にもどってぼっとしていると、魔物みたいのが自分を海中にひき
ずりこまれいくようで苦しくなるとついリストカットしまうとのこと。でもある時、
真夜中突然ピアノを引き出すと気分が一新して切らずにすんだと。
姉には「うるさい」と怒鳴られたそうで、詳細なことは聞きませんが、私はその時の
対応を誉めました。認知行動療法の選択的適用の応用と直感しました。
しかし、当時の北区のそのNPOにほぼ同年の発達障害の男性のスト-カ-行為があって
カウンセリングは中断しました。コンビニで待ち伏せに会ってから来なくなりました。
でも、介護ヘルパー3級とって将来父母に恩返ししたいと聞いて、この人やるじゃ
ないかといじらしく感じました。
▲ 対話的支援
厚労省の研究班のガイドラインによれば、ひきこもりの支援として①家族支援
②個人療法 ③集団治療 ④ソ-シアルワ−クの段階を推奨しています。
従って先ずは①からスタートすることが本人の治療にとって不可欠と思われます。
①は親子との対話がうまくいかないことなどがありなどがあり、支援者側としては
家族との相談に応じつつ基本的知識と対話法について情報提供していく段階で
家族会への参加も勧められるとのこと。
筆者は、近年家族と当事者双方に対する支援とケアの手法としてオ-プンダイアロ−グ
の実践を進行しています。このODについては、私は別のサイトですでに紹介
していますが、筆者はフィンランドで開発された精神病に対するケアの手法/システム
/思想のことを述べています。そしてこの手法はひきこもりに対しても極めて有効との
ことです。この対話基本スタイルは患者本人を中心として友人、知人、医師等専門家
等が本人を囲むように座って「開かれた対話」(緊張がほぐれて話しやすい場の
設定がなされます)
そしてすでに石川先生と対比して私の見解を述べましたように対話の目的は、治療でなく
「対話をし続けること」(それによって本人の日頃抱いている様々な思い、感情を
オ-プンにし、他の参加者も同様に自由に述べていく手法をとります。)
そして対話に於いては、合意や調和を目指す必要はなく、「違っていること」はむしろ
歓迎されると筆者は指摘しています。意見の違いがあっても、それを擦り合わせる
のではなく、何故違うのか、どのように違うのかを掘り下げることこそ大切とされる
とのことです。
対話では、メンバ-それぞれ異なった意見がポリフェニック(多声的)に響き合う空間を
目指すとること。それはシンフォニー、フィルハーモニーとはずいぶん異なった響き
になるでしょうと。まさに異なった色々な意見が出てきて、時として混沌としていて
不安等になっても忍耐強く乗り越えていくところに斎藤先生が主張される
「治療的民主主義」の真価が試される貴重な時と痛感しました。
「リフレクティング」では上記のような混沌とした時では、患者、家族の見ている
前でstaff同士が意見交換し、それに対して患者や家族が述べるとのこと。
治療方針のアイディアは、筆者によれば「お盆にのせる」ように提案されると。
(当事者等への気配りです)
そうすることで彼らは専門家のやりとりを観察しながら、安心して気に入った
治療方針を選べるようになるとのことです。
対話のすべての過程において患者の自由と権利、そして尊厳が尊重されます。
対話の余白において「患者の主体性と自発性」が育まれていくのです。と